10月14日は「焼うどんの日」だということをご存じか?北九州市の小倉発祥(といわれる)「焼うどん」と静岡・富士宮名物の「焼きそば」が雌雄を決した2002年10月14日にちなんで、この日は「焼うどんの日」に制定されている。いまやソウルフードとして名高い焼うどん。そのルーツを探る。
戦後の食糧難で生まれた焼うどん
JR小倉駅近くにある百貨店の小倉井筒屋。いま小倉焼うどん発祥の店といわれる「だるま堂」は、井筒屋の一角を間借りして営業している。だるま堂の創業は戦後間もなく。小倉駅近くの「鳥町食道街」で誕生した。食料難の時代に初代店主が、焼きそばを提供しようとしたが中華麺が手に入らず、店にあった乾麺、干したうどんを使ったことが、焼うどんの始まりだという。
この記事の画像(8枚)「焼きそばのようにソースをからめて出したら人気が出て広まった」と話すのは3代目店主の竹中康二さん。小倉焼うどんは、麺は細いがコシは強い。味の決め手に「魚粉」をまぶしているのが一番の特徴だ。
実は竹中さん、小倉焼うどんを全国に広める活動を続ける「小倉焼うどん研究所」の所長も務めている。「焼うどんの日」もこの団体によって制定された。いまから20数年前は、世の中であまり知られていなかった焼うどん。この魅力ある北九州市の食文化をもっと広めたいと思ったのがきっかけだった。
「毎年10月14日なれば『焼うどんの日』と聞いた多くの人に北九州市、小倉のことを知ってもらえたらな」と竹中さんは話す。
まさかの火災も地域が支えた味
そして2020年、竹中さんは、だるま堂の3代目として鳥町食道街の店を継いだ。創業当時と変わらない味で人気を博していたが悲劇が襲う。
2024年1月、鳥町食道街がまさかの大規模火災に見舞われたのだ。火は隣接する魚町銀天街にも燃え広がり36店舗、約2万700平方メートルが消失。だるま堂も被災した店の1つだった。
「先代に申し訳ない」と肩を落とす竹中さん。だるま堂は、建物こそ焼け残ったものの、この場所での営業は不可能になる。自分1人ではどうにもならないと思っていた矢先、地元の老舗百貨店・小倉井筒屋から「1日も早い復活を」と声がかかったのだ。この有難い申し出にだるま堂は、4月から百貨店内の一角を間借りして営業を再開することができた。
店の入り口には、焼け残った看板や先代が使っていた焼うどんを焼くヘラなどが飾られいる。鳥町食道街の復活を強く願っているのだ。
11月から創業の地で営業再開へ
火災から約10カ月。鳥町食道街を訪れた竹中さん。店は焼けずに残っているが、店内が消火の際の水でダメになっていた。竹中さんは鳥町食道街でかつて店をやっていた店主や常連客などから「だるま堂には創業の地に戻ってきてほしい」とよく声をかけられるという。
その声に「再び、この場所で営業を」と誓う竹中さん。現在の井筒屋内での営業に合わせて、新たに創業の地での営業再開に向け準備を進めている。11月から鳥町食道街の一角を借りてキッチンカーのような形で、だるま堂を暫定的に復活させるというのだ。竹中さんは、創業の地で観光客の受け皿になるような店にしたいと思いを新たにしている。
北九州市の食文化を作っただるま堂。竹中さんはより多くの人に伝統の味を届けるため新たな歩みを始めようとしている。
(テレビ西日本)