母の証言を基に描いた「福岡大空襲」

火の雨のように降り注ぐ焼夷弾。
防空頭巾をかぶった人たちが火の中を逃げ惑う。
1945年6月の「福岡大空襲」。

描いたのは、漫画家・長谷川法世さん(74)。
博多をモチーフにした「博多っ子純情」の作者としても知られる、福岡を代表する漫画家の1人。

長谷川法世さん:
この辺に来たらね、真っ暗い中に丸太がごろごろ転がっとってね、って言うんです。それで3回ぐらい転んだもんねって。私、お腹の中に6カ月ぐらいいた

長谷川法世さん:
(昔の)博多駅がそこに、国体道路があるやろ。そしたらここに出たら、ぼんぼん燃えてたそう。土手で一晩過ごしたって、夜が明けるまで。そしたら、やぶ蚊がかゆうてね、って…。
それで話はお終いになるんです

兄との思い出などが描かれた「純情・博多っ子戦争」。
その冒頭に描かれたこのエピソードは、法世さんが母親から聞いた証言が基になっている。

長谷川法世さん:
完全な、戦争ものとして何か作品を書くには、僕の中に(体験が)ないんです。だから、かろうじて聞けたのは、空襲の時のおふくろの話だった

終戦の1カ月後、1945年9月に生まれた法世さん。
父親が一代で築き上げた、今の博多区冷泉町にあった旅館で、4人兄弟の末っ子として育てられた。

ーー博多がこんなふうに変わるって思われました?

長谷川法世さん:
いや思わんでしょう。あんな負け方で、こんな空襲のあとで

疎開道路や防火用ポンプ・・・今なお残る戦争の傷痕

大都市となった博多。
戦争の痕跡はひっそりと残っていた。

長谷川法世さん:
この歩道というのが、(以前)ここに家があったんです。それを防火帯をつくるために引き倒して、みんな出ていかせて広げた道なんです。本当は櫛田神社、ちょっとよけたんだと思う。銀杏も切らなきゃいけないという話だったのを断固として反対して残したらしい

戦時中、焼夷弾による延焼を防ぐため、住民を強制的に立ち退かせて作った広い道。
この道があったため、福岡大空襲では、櫛田神社や住んでいた冷泉町周辺は、火の手から逃れることができたという。

長谷川法世さん:
疎開道路っていうの、知らん人が多い。ただ私が知らない疎開道路もいっぱいあるんですよ

さらに大博通りを歩いてみると…

長谷川法世さん:
防火用にバケツリレーですよ。ずーっと、燃えているところまでつながって、じゃあっとかける

両側にハンドルがついた2連タイプのポンプは非常に珍しく、戦時中は全国で愛用されていた。

ーーこういうのは昔はいくつもあったのかもしれませんね?

長谷川法世さん:
そうなんですよね。でも聞く人がいないんですよ。角あたりに店があったから行ってみたら、「うちは戦後やもんね」って

長年 博多に根を張り、街の成長を見守ってきた法世さんですら、当時の記憶を持つ人にはなかなかめぐり合えないそうだ。

戦争への道を再び歩まないために…

法世さんが館長を務める「ふるさと館」。
博多の歴史を伝えることも使命の1つだが、日々 その難しさを実感している。

長谷川法世さん:
無記名の人が、展示棟の片隅に「これは焼夷弾です」って置いていった。「使ってくれ」と。会って話を聞きたかったな

寄贈した人物は当時、中学生で密かに自宅に持ち帰って保存していたそうだ。
10年ほど前から福岡大空襲の日に合わせて、3年にわたって匿名で置かれていたということだが、その後ぱったりと止み、本人から当時の話を聞けなかったことに、法世さんは唇をかみしめる。

と同時に、戦争の記憶を持つ人が、年々減っていくことで同じ過ちが繰り返されるのではないかと、法世さんは今 強い危機感を感じている。

長谷川法世さん:
私が若い頃は「いつか来た道」という言葉がアイデンティティーのように言われていた。日本がまたいつか来た道をたどるんじゃないか、戻るんじゃないかと。戦争はいけないというだけで、コトは済まないんじゃないかな。その先も考えてないといけないでしょう

日本がいつか来た道。
戦争への道を、再び歩まないために。

(テレビ西日本)