旧満州で経験したことを、戦争を知らない世代へ語り継ぐ

尾形京子さん(83):
息を吐くと、帽子の毛がカチカチになったり、本当に寒いところでした

宮城・大崎市松山出身の尾形京子さん、83歳。
尾形さんは5歳の時、旧満州…現在の中国東北部に両親と移住した。

尾形さんは、旧満州での体験をつづった小冊子を12年前に作成。
知り合いに挿絵を頼み、戦争を知らない世代に向けた語り部活動も行ってきた。

尾形さんが3年間暮らした旧満州。
日本は、敗戦まで国策として開拓移民など約27万人を送り込んだ。

尾形さんの父・道さんは、訓練生と呼ばれた10代後半の少年たちで作る「満蒙開拓青少年義勇軍」の指導者だった。
弟の嘉信さんも生まれ、訓練生や学校の友達も、皆が家族のように暮らしていたという。

しかし、8歳の夏…

尾形京子さん(83):
「オーイみんな、負けたど、負けたどや」と、近所の支配人があわただしく叫んで、終戦を告げられました

日本へ帰るために…迫害を逃れる“地獄の始まり”

日本への逃亡が始まった。
父親とはぐれ、母親の千代子さんは、リュックサックの上に3歳になった嘉信さんを背負い、京子さんの手を引いて逃げた。

尾形京子さん(83):
ここからが地獄の始まりでした。この時、みんなに毒薬が渡されました。敵の攻撃に耐えられなくなった時の、最後の手段のためにだそうです。母は「どんなに辛くとも、この薬だけは絶対に飲まないで、頑張って日本に帰ろうね」と、強く私の手を握りしめました。

尾形京子さん(83):
列をはみ出るものなら、憲兵が来て銃を突きつけられます。一行の中にいた赤ちゃんが泣きわめきました。「だまらせろ」と憲兵の怒鳴り声。赤ちゃんのお母さんは、周りへの迷惑を気にしてか、その赤ちゃんをねんねこにくるみ、道の両脇のコウリャン畑に置き去りにしてきたと聞きました

侵攻してきた旧ソ連軍に追われ、迫害を恐れる日々。
食べるものはおろか、満足に水も飲めず、腸チフスなども流行した。
仲の良かった友達の順ちゃんとチエちゃん。
それぞれの親が「毒薬を飲ませて亡くなった」と、のちに聞いたという。

尾形京子さん(83):
ひもじい思いさせるよりは、ここで薬を飲ませて楽にさせてあげた方がいいのではと、そういう親心でなかったのかな…

4年前、地元の松山高校で戦争体験を伝えた尾形さん。
今も忘れられない光景を語った。

尾形京子さん(83):
お腹を空かせた弟は、「お母ちゃん、まんま、ちょうだい。まんま、食べたいよ、まんま、まんま…」と叫びながら、息絶えてしまいました。母は、その場に伏して、「よっちゃん、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね」って、土に顔をすり込んで号泣していました。あのとき私は戦争を恨みました

当時3歳だった弟・嘉信さん。
一度も、日本の土を踏むことなく亡くなった。

尾形京子さん(83):
本当にかわいそうだったね、よっちゃんは。「まんまー、まんまー」って、泣き泣き死んでいったんだもんね

母への感謝と平和への願い

尾形さんは1年がかりで、母親の千代子さんと2人、日本にたどり着いた。

尾形京子さん(83):
「かあちゃん、ここは日本なの」、「そうだよ」。みんなのことが一気に思い出され、「どうして、どうして私だけになってしまったの」と、悲しみとうれしさが1つになり、オンオンと声を出して泣いてしまいました

尾形京子さん(83):
母親の信念がね、強かったんだと思う。「日本に帰ろうね」と言ってくれて、そして本当に生きて日本に連れて帰ってくれました。本当に母親に感謝です

終戦から75年…尾形さんは、静かに願い続ける。

尾形京子さん(83):
本当、戦争は絶対あってほしくないね。今の平和をこのままそっとしておいてほしいね

想像を絶する体験だが、戦争を知らない私たちは、こうした戦争体験を聞いたり、読んだりすることで、想像力をつけることが、「平和」を守る一歩になる。

尾形さんの体験記は、大崎市の松山公民館の図書館で見ることができる。

(仙台放送)