東日本大震災の発生から13年が過ぎ、教訓を語り継ぐことの難しさが浮き彫りになっている。「陸の津波」ともいわれる福島県須賀川市での農業用ダムの決壊。あの日の「後悔」を震災後に生まれた子どもたちへ、そして地域の未来へとつなごうとしている人たちがいる。
祖母を残したまま…
「水が流れてくるような感じがあって、最初は水道管が破裂したのかなって感じだった」と話すのは須賀川市に住む和智裕子さん。
この記事の画像(13枚)東日本大震災が発生した2011年3月11日。自宅に水が迫ってきたがダムの決壊とは思わず車を避難させようと、祖母・さつきさんを残したまま、家を離れた。そのわずかな間に家は濁流に飲み込まれ、さつきさんは帰らぬ人となってしまった。
「その時は、どうせこのくらいだから戻ってくれば大丈夫だろうという思いで、普通に車だけを持って行った。本当に後悔しかないというか。私が祖母を殺してしまったのかという思いとか、私が一番助けられたのになっていう思いはすごくありました」
地震で決壊 濁流が集落を襲う
農業用ダム・藤沼湖は、70年以上にわたって周辺の水田に水を供給してきたが、東日本大震災の地震で決壊。
春からの稲作に備えて、満水近くまで貯められていた約150万トンの水が濁流となって下流の集落に流れ込み、8人が犠牲になった。
あの日、藤沼湖で起きたのは「崩れ」と「滑り」だった。
県中農林事務所・農村整備部長の千葉正さんは「堤体が崩れて、水が下流まで流れたという状況。上部は砂分が多い土でできていたので、上がった水で砂分が飽和されて、そこに大きな地震が起き、それが崩れて滑りを起こして決壊したと考えられる」と説明する。
時代背景も 独特な構造に
昭和12年から建設が始まった藤沼ダム。基礎となる地盤の上に、周辺の山から集めた土を人力で積み上げていったが、戦争での作業中断などもあり、作業の時期によって3層に分かれていた。
一番上の層が「砂」を多く含み、水を浸透しやすい構造となっていて、水を吸って結合が弱くなったこの層が、強く長い地震で「滑り」を起こし、その下の層までも崩れたと考えられている。
教訓を防災力向上に
約4年前に完成した現在のダムは、水を通しにくい芯の周りを石などの強度が高い素材で覆う構造となっている。
県中農林事務所の千葉さんは「震災から13年が経ちますけど、このダムを守り抜いて、地域の農業、再生をしっかり果たしていきたい。この教訓を語り継ぎ、復興に向けた防災力を高めた取り組みを県として進めていきたい」と話した。
忘れない 伝えなければならない
祖母・さつきさんを亡くした後悔を抱える和智さんは、7年前から元の家の近くに新居を構え新たな生活をはじめた。
和智さんの子どもたちは、震災後に生まれ「陸の津波」を知らない。子どもたちが知っているこの場所が穏やかだからこそ、あの日の被害は忘れてはいけない、伝えなければいけない、と感じている。
「小学生では自分で判断して行動するのは難しいと思うが、いつどこでどういう風になるかはわからないので、少しずつでも、こういう時どうするの?とか、こういう風な状況だったらどうする?と聞いたり、伝えたりしていければ良いなと思います」と和智さんは話した。
災害から身を守れるように。同じ悲劇を繰り返さないように。次の世代へと教訓をつなぐ14年目を迎えた。
(福島テレビ)