原爆投下から75年…模索を続ける女性を取材

原爆投下から75年の今年、新型コロナウイルスは、高齢化した被爆者の活動の機会を奪っていく。歌えない、それでも伝えたい、模索を続ける女性がいた。

世界に一つだけ、被爆者だけの合唱団、「ひまわり」。

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毎年、8月9日に長崎市で開かれる長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で、平和への思いを歌で発信してきた。
しかし、今年は新型コロナウイルス感染拡大防止のため式典が短縮され、「ひまわり」の出番がなくなってしまった。

「ひまわり」のメンバー、被爆者の宇木和美さん(87歳)。

宇木和美さん:
すごく残念です。「ひまわり」のメッセージを世界の方々に聞いていただく機会はこれしかない。本当に悔しいです

新型コロナの影響で、毎週火曜日の合同練習は3月以降、行われていない。

1945年8月、宇木さんは12歳、県立女学校の1年生だった。

自宅は長崎市にあったが、夏休みだったため、母親や妹たちと疎開先の島原市で過ごしていた。しかし、「あの日」だけは、引き止める母親を振り切って、1人で長崎へと帰っていた。

宇木和美さん:
登校日だからぜったい行くって言って。そして長崎に帰ってきて原爆にあった。その時に母になんてわびたらよいか…

長崎に原爆が投下された、8月9日午前11時2分、宇木さんは、爆心地から4.2キロ離れた大浦下町の自宅にいた。

宇木和美さん:
そろそろお昼ごはん何いただこうかと言っている時に、あっという瞬間、警報も何もならなくて、空が真っ白に光って。窓の外が。それと同時にすごい風と光がバーッと入ってきて家の中は木っ端微塵に。

大きな机の下に身を潜めたためかケガはなく、翌日、出張先の熊本から戻った父親が迎えに来てくれた。疎開先の島原に向かおうと、宇木さんは父親とともに列車を求めて長崎駅から道ノ尾駅まで、線路の上を歩き続けた。

宇木和美さん:
この線路をずっと歩いたわけですね。よく考えたら遠い。線路の脇に黒焦げになった方が多く横渡っていて、それが目に入るんですけど全然かわいそうとか怖いとかそういう気持ちがなくて。ただ線路を無意識に父親の背中を見ながら一生懸命ついていく感じ。大橋のたもとにお母さんが2歳くらいの女の子を抱きしめて横になっていた。それを見たら、かわいそうでね。私が二度と戦争をしてはいけないと思った原点

宇木さんは、県内の大学を卒業した2年後に結婚し、夫の転勤のため県外を転々とした。60歳で長崎に戻るまで、原爆のことを思い出す日はなかったといいます。

自分の胸の中だけに…これでよいのだろうか

宇木和美さん:
思い出すまいという自分の意識もあったと思う。資料館とか浦上を歩いて、その時の様子がばーっと夢の中に出てき始めた。何十年と思い出しもしなかったが、それから夜中眠れなくて。70をすぎて、自分もうあと何年生きれるかしらと思ったときに、私は被爆者なのに自分の見たことを自分の胸の中だけに閉じ込めてだれにも話したことがなかった、果たしてこれでよいのだろうかと

そんな時に出会ったのが「ひまわり」だった。

「歌」で平和への思いを伝えたいと、仲間に加わった。参加して今年で12年目になる。

宇木和美さん:
胸のうちにいろんな思いがあるのをそのまま持っていたら、思わないのと一緒だと。話して初めて、自分が思ってることがきちんと思ったということにつながる

寺井一通さんは、2004年の結成当時から、「ひまわり」の歌を作詞・作曲し、指導もしている。

ひまわりの指導者・音楽家 寺井一通さん:
不安だらけですよ、被爆70年の5年前は50数名いたメンバーが、今は30人を切っている。いつまで「ひまわり」として歌っていられるんだろう、ということは、数年前からずっと考えている

最近もまたメンバーが減った。現在は30人を切り、平均年齢は81歳。集まって歌う機会のないままに、時だけが過ぎていく。

練習再開の見通しがたたない中、宇木さんには新たな思いが芽生えたという。

宇木和美さん:
自分のこれからの時間を考えたときにもったいない。語り部、県外から来た人に原爆のことや体験を伝えていらっしゃる人がいますよね、それだったら1人でも参加できるんじゃないかなと思って。やれるかどうかわからないけど、進めてみようかなと

あと、何年伝えられるのだろうか。歌以外での方法を模索している。

宇木和美さん:
戦争が人類にとって何も益することがないということを知ってほしい。歌の歌詞にあるように「二度と被爆者を作らないで」って。一番の望みは、戦争を繰り返さないということ

(テレビ長崎)

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