避難所を出た後に被災者が生活する場所。仮設住宅に加えて、「みなし仮設」と呼ばれる賃貸型応急住宅がある。これは自治体が民間のアパートなどを借り上げて被災者に暮らしてもらう形だ。そして県営や市営などの公営住宅も選択肢のひとつだ。いずれも避難所に比べればプライベートも守られ、自由に暮らすことができるが、それで万事解決とはいかないようだ。
家電も日用品も自前で調達
堂下政弘さんと妻の美智子さん。能登半島地震で孤立集落となった石川県輪島市南志見(なじみ)地区から集団で避難し、先月から津幡町のアパート、いわゆる「みなし仮設」に移り新たな生活を始めた。日用品や家電はある程度揃っているように見えるが、どこで調達したのだろうか。
この記事の画像(8枚)堂下さん夫妻が日用品を工面した場所は、石川県金沢市の四十万小学校に3月24日まで設置されていたコーナーだ。金沢に集団避難した人たちをサポートしてきた地元のグループ「みんなの畑の会」が、様々な支援物資をこの場所に集めた。みんなの畑の会の西田敏明代表理事は「私が仙台にいた時に阪神淡路大震災を体験しましてね、そこで支援させていただいた。その後、金沢に戻ってから東日本大震災が起きました。毎週通いながら向こうの支援をして、色んな課題を感じながらやってきて、万が一災害が起きた時にはこういうことが必要だなということで準備した」と活動を始めた経緯を話してくれた。この支援物資が、故郷を離れて新たな生活を行う被災者の助けになっているのだ。利用者の1人は「こたつももらったし、カーペットももらった。食器も保存容器ももらったりね。色々もらいました」と感謝していた。
西田さんは「冷たいかもしれませんが、今回なってしまったことはどうしようもないわけですから。どうやったら次に、新しい能登を作れるかという風に前に一緒に支援する我々も一緒になってやるということで長い活動になると思う」と話す。堂下さん夫妻にとってもこうした支援がなければ、みなし仮設に移るという決断はできなかったかもしれない。
避難所生活よりも出費がかさむ
政弘さんは「避難所からの支援は何もないですよ」と話す。美智子さんも「避難所を出た方がお金がいるもんで、水の1本も欲しいしね」と、みなし仮設での生活が家計を圧迫している現状を明かす。みなし仮設で生活する人たちが直面する問題。それは生活に必要なものを全て自分たちで揃えなければならないことだ。水も電気も全て自分たちで契約して支払いを続けなければいけない。
みなし仮設生活の悩みは経済的なものだけに限らない。美智子さんは「ストレスもないし快適なんだけれど、ちょっと寂しい。みんなと離れちゃったから。することも無いから」と孤独感を抱いている様子だった。美智子さんは避難所にいたとき、同じ南志見地区の人たちと一緒に炊き出しなどに参加していた。当時避難所で取材したときには「何もしなくていいのは辛いんですよ。みんな朝から晩まで働いてきた人たちだから。だからこんな風にみんなで集まって何か作ったりするのが、みんなも生き生きとして楽しい」と話していた。みなし仮設に移ったことで、夫婦での時間は増えたものの、近所の人たちと離れ離れになったことが辛いという。
地域の人たちとバラバラに
堂下さん夫妻。地震が起きるまでは、美智子さんが地元の野菜で作った漬物などを販売し、政弘さんは、道の駅を運営する会社の役員として働いてきた。今後の住まいや仕事について聞くと、政弘さんは「それが今、どうしたら良いんかなと思って、ずっと考えてるが方向性が見えないので…」と話す。
煮え切らないのには、もう一つ大きな理由がある。「罹災証明で引っかかってて。1階の天井まで土砂が入ってきているのに、“準半壊”という結果だった。準半壊だと行政から一切お金が出ない。自分で家を潰して廃棄するかどうか判断しないと…」。堂下さんは二次調査を要望したが、外観から判断する一次調査と違い二次調査は1軒1軒中に入って調査するため、順番が回ってくるまでまだまだ時間がかかるようだ。
「再調査の結果が出ないと前に進めない。仮設住宅も申し込んでるんです。戻りたい気持ちはいっぱいあるんですが、自分のなりわいとか全て震災で潰れてしまった。仮設住宅ができて、入っても意味ないもんな…全部壊れちゃって、行ってもしゃあない。でも、みんなには会いたいしな…」と政弘さんは話す。美智子さんも「目の前が海で育ってきたんで、津幡にいても仮住まいという気持ちは抜けない…やっぱり南志見に帰りたいな」と正直な気持ちを漏らす。ようやく避難所を出られても被災者を苦しめているのは、3カ月たっても依然として見通せない「未来」と言う現実だ。
(石川テレビ)