北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)総書記の娘で「キム・ジュエ」と呼ばれる人物の存在感が一層増している。最近の北朝鮮公式報道における娘の扱いを見る限り、「後継者ではないと見るのも難しい」曖昧な状況が続いている。北朝鮮はこれまで、儒教的な家父長制の考え方が体制宣伝と結びついた男性中心の社会と考えられてきた。
この記事の画像(5枚)そんな北朝鮮社会で「女性の最高指導者」は果たして受け入れられるのだろうか――こんな疑問を抱く人が少なくないのもこのためだ。しかし、金正恩時代に入って、男性中心の社会を覆すような変化が急速に広がっているという。主役は家族を「守る」ために商売をはじめた「女性」たちだ。家庭だけではなく外の世界でも影響力を増した女性たちが、北朝鮮社会を大きく揺さぶっている。
「イケメンとの結婚もカネ次第」「離婚急増」
韓国統一省傘下の研究機関・統一研究院は3月、北朝鮮社会における女性の役割や社会的地位の変化について分析した研究「北朝鮮住民の家庭生活:国家の企画と国家から独立」を公表した。ここには女性が経済活動の主体として存在感を増す中で、北朝鮮社会にどのような変化が生じたのか、脱北女性の生々しい証言が収録されている。
金総書記の祖父・故金日成(キム・イルソン)主席の時代は、配給によって全てが賄われ、生計の心配はなかった。しかし、社会主義陣営の崩壊や自然災害などにより父・金正日(キム・ジョンイル)総書記の時代には、配給制度が崩壊し人々は自力で生活を差さえなければならなくなった。職場に拘束される男性に代わり、チャンマダンと呼ばれる自由市場で商売し食糧を調達したのは女性たちだった。
さらに金正恩時代になって、男性は対外的な役割を果たし、女性は生計を維持する――という役割分担が一般化した。男性は「組織」に所属して社会生活を担い、市場で稼ぐ女性たちは個人生活を優先する形で棲み分けが進んだことになる。
女性が経済的な主導権を握ったことで、結婚事情も激変したという。
「結婚の80~90%はカネ。ブスでもお金があればハンサムな男性と結婚できる」
「条件のいい男性と結婚するには、家を買っておくべきだ。追い出すよと脅したら、良く働いてくれる」
こうした脱北女性の証言からは、経済事情が結婚に及ぼす影響が浮かびあがる。
市場で成功した女性は、学歴が不十分で容姿が良くなくても、結婚相手に困ることはない。経済力があれば幾らでも条件のいい男性と結婚できるからだ。しかし、結局はうまくいかずに離婚するケースが多い。こんな証言もある。
「最初はお金が必要だから一緒に暮らしたが、生活してみると違うと感じて別れる。好きあって結婚したのではないから、男が浮気をする。金のために結婚して離婚する確率が多い」
金正恩政権下でも離婚は厳しく禁じられているが、それでも離婚率は急速に高まっているという。
一方、離婚のリスクを減らすため、婚姻届を出さずに同棲生活を送るカップルも急増した。
当局も「同居届」を出すように言うだけで、事実上黙認している。
「3年暮らしてから婚姻届を出せという言葉があります。いったん婚姻届を出すと、後で離婚の手続きが複雑になるから」。
同棲中に子どもができた場合、出生後数年経ってから届出することも可能だ。離婚以外の手続きはかなり柔軟で、今では婚姻届を出して結婚生活を始める若者はほとんどいないという。
経済的に自立したことにより、北朝鮮でも女性が様々な選択肢を考慮することが可能になったことがわかる。
愛人は当たり前、動員もカネで解決
北朝鮮住民にとって大きな負担になっているのが、「人民動員」といわれる社会奉仕活動だ。特に女性は自宅周辺の道路掃除から農村支援まで、様々な活動への参加が強いられてきた。
だが、金正恩時代に入ると金を払えば、こうした奉仕活動への参加が免除されるようになった。大金ではないため市場にいって一日働けば十分もとが取れ、動員問題をカネで解決するシステムが定着したという。
また、金正恩時代は外貨稼ぎによる富裕層が急増し、生活水準も向上した。貧富の差が拡大する一方で富裕層は消費生活を享受し、余暇を楽しむ余裕も生まれた。貿易のため海外との交流を経験した人々を中心に、外国文化の影響も広がっている。
こうした中で「男女関係」もカネで決まるというのが、今の北朝鮮社会の常識だという。特に富裕層では男女を問わず愛人を持つのが当たり前というから驚きだ。北朝鮮で貿易商をしていた女性はこう証言している。
「今は幹部たち自体が女性のいない人、セカンドのない人がいません。お金を稼ぐ人、貿易系統で働く人はお金が多いから、愛人のない男はいません」
北朝鮮の経済難と女性の経済活動の増大に伴い、女性の役割は一家の大黒柱的存在へと大きく変化した。男性は「家長」「対外窓口」としての権威は維持するものの、家庭の実権は妻、娘へと移行したのである。息子が親の面倒を見ることが伝統とされてきた北朝鮮社会だが、今では娘が実家の両親の面倒を見るケースが増大している。
北朝鮮でも少子化が進み、「1人だけ産み、よく育てよう」という文化が広がっているという。子どもが1人だけの場合、好まれるのは息子より断然「娘」だ。家族の中で頼りになるのは「娘」という考え方が、北朝鮮社会に浸透しつつある。
存在感増す「キム・ジュエ」
金総書記もこうした社会の変化を肌で感じているだろう。北朝鮮当局は依然、娘の名前すら公式に発表していないが、公式メディアは「娘への後継」に向けた動きを可視化させているようにみえる。
北朝鮮メディアは最近、金総書記がジュエ氏とともに現地指導に出向く様子を伝え、その際には▽「1号」(最高指導者)演出写真さながらジュエ氏が金総書記の前に立って望遠鏡をのぞいている場面を伝える▽最高指導者や朝鮮労働党を修飾する時に限定的に使う「嚮導の偉大な方々」という表現を金総書記とジュエ氏を念頭に使う――などの報じ方をしている。
北朝鮮メディアでジュエ氏の動静が取り上げられたのは今回で26回目。これまでは軍事分野中心だったが、経済分野でも金総書記の現地指導に同行するようになった。
北朝鮮社会で経済的にも実生活でも存在感を高める女性たち。党や政府の要職につく女性の割合はまだ低いが、女性の意向が社会を動かし、変化を促す状況は広がっている。
こうした変化が今後、北朝鮮の後継者選びにどのような影響を与えるのか。キム・ジュエ氏が女性として北朝鮮社会でどのような役割を象徴する存在となっていくのか、目が離せない。
【執筆:フジテレビ客員解説委員 鴨下ひろみ】