津波で児童らが亡くなった大川小へ

7月15日、岩手・釜石市の津波伝承施設「いのちをつなぐ未来館」のスタッフが、宮城県に研修へ出かけようとしていた。

語り部の1人、菊池のどかさん(25)。複雑な思いを抱えていた。

いのちをつなぐ未来館・菊池のどかさん:
なかなかその場に行く勇気がない。ご遺族がどんな思いかを考えると言葉にできなくて…

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向かった先は、津波で大きな被害が出た石巻市立大川小学校。のどかさんにとっては、初めての訪問。

北上川の河口から約4km上流に位置する大川小学校。児童74人、教職員10人が犠牲となった。

あの日、児童らは、教諭の指示で約50分 校庭で待機したあと、小高い川の堤防へ移動していた途中で津波に襲われた。

学校の事前の防災態勢に不備があったとして2019年10月、石巻市と宮城県に賠償を命じる判決が確定している。

同じ3月11日 釜石では、東日本大震災前から防災教育に取り組んでいた釜石東中学校と鵜住居小学校の子どもたち約600人が、一斉に高台に避難した。

その行動は当初、釜石の“奇跡”と称賛された。

いのちをつなぐ未来館・菊池のどかさん:
小学生と中学生が手を繋いで逃げたけど、中学生も怖いんですよね。津波にまかれるんじゃないかと思ったし…

当時、釜石東中3年生だったのどかさんは、未来館でその体験を伝えてきたが、訪れる人から大川小と比較して質問されることも多く、戸惑いを感じていたという。

いのちをつなぐ未来館・菊池のどかさん:
(大川小は)何も知らない自分が語れる場所ではない。なぜそこまで、この2校を比べるのってずっと思い続けていた…

壮絶な体験をありのままに

バスは140kmを走り、大川小学校へ。

出迎えたのは、児童の遺族の1人、佐藤敏郎さん(56)。市が保存を決めた大川小では今、震災遺構としての整備が進められている。佐藤さんは、ここで語り部としての活動を続けている。

大川伝承の会・佐藤敏郎さん:
今は何もなくなってしまったけど、よく目を凝らすと子どもたちが見えてくるし、声も聞こえてくる。子どもたちが走り回っていた場所です。その姿、見えてくるでしょうか

震災当時、中学校の教諭だった佐藤さん。壮絶な体験をありのまま伝える。

大川伝承の会・佐藤敏郎さん:
眠っているみたいなんです、「起きろ」と言えばすぐ起きそうな。みずほに「みずほ」って言ったら涙を流しました、右目から。学校のそばで、学校の子どもたちが泥だらけでブルーシートをかぶせられて、何十人も並べられていてはだめだと思う。なるべくとか、できるだけではなく、絶対だめだと思う

校舎の目の前には山があったが、あの日 避難先とはならなかった。

大川小の防災マニュアルには、具体的な避難場所は明示されておらず、訓練も行われていなかった。

大川伝承の会・佐藤敏郎さん:
事前の備えや心構えができていれば、逃げるかどうか、どこに逃げるかの議論はいらなかった。そうしたら意思決定は早かったと思う。子どもを救いたくない先生はいない。先生が救いたかった命なんです。だから考えなければいけない。そうしないと、先生の命も子どもの命もわたしたちの日々も、無駄になってしまう

いのちをつなぐ未来館・菊池のどかさん:
自分はずっと、本当はここに来たくて、自分が行っていいのかと思い続けた9年間、10年間だった。人を助けたい、未来につなげたいという部分で、同じ思いを持って、佐藤さんが話してくれて、みんなが等しく助かれるようにしていかなければとすごく思った

大川伝承の会・佐藤敏郎さん:
相乗効果というわけではないが、(被災地同士で)コラボレーションして、より広く、より深く、より未来に伝えたい

今後の活動への決意を新たに

釜石でも、途中の集合場所で余震による落石が確認されなければ、さらに高台へ避難することはなかったかもしれないと、のどかさんは考えていた。

いのちをつなぐ未来館・菊池のどかさん:
わたしも、すべてが的確な判断の中で助かったわけではない命。どうしても“良い例”にされて、誰かが亡くなったとかそういう話は、なかなか言えなかった立場だけど、釜石であったことを誠心誠意伝えていかなければと思った

震災から10年目、初めて大川小を訪れた菊池のどかさん。

迷いを1つ取り払い、未来の命を守る今後の活動への決意を新たにしていた。

(岩手めんこいテレビ)

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