10年超の兵役義務が脱北を決意させた

北朝鮮のチョジン市で北朝鮮軍の将校だったパク・ミョンホ(現在53歳)は、妻と2人の息子と共に不自由のない生活を送っていたが、1996年頃から韓国への亡命を考えるようになった。

北朝鮮では10年を超える兵役の義務があり、それが脱北を決意する一番の理由だった。
「北にいては、息子たちの将来が見えないと思った」

ミョンホは反対する妻を説得し、2年間かけて逃亡ルートを綿密に調べた。
そして韓国でも家族が生活していけるように、軍務の合間に潜り漁の技術を身につけて、着々と脱北の準備をした。
 

あえて危険を伴う“海路”を選んで

多くの脱北者が中国との国境を陸路で越えるが、パク一家は黄海を渡るルートを選んだ。
漁船を装った古い小舟を使い、潮の流れに乗って南を目指した。
危険を伴う海路をあえて選んだ理由は、陸路ではたとえ国境を越えることができても、中国当局に拘束された場合には、家族が離ればなれになる可能性が高いからだ。

家族を一番に愛するミョンホにとって、家族が一緒にいられなければ脱北する意味がない。
家財や思い出の品などを全て捨て着の身着のままで、一家は韓国に近いオンジングンから小舟に乗り込んだ。

1日分の食料と、万が一脱北に失敗したときに一家で自決するための毒薬だけを携えて−−。
 

亡命先で直面した南北格差と脱北者への差別

2006年5月24日、北朝鮮が核実験を成功させたのと同じ年に、パク一家は脱北に成功。
ついに韓国の地を踏むことができた。

しかし、自由を求めて命をかけて韓国にやってきた一家を待っていたのは、70年間の分断によって生まれた北と南の大きな格差。
そして、“脱北者”への差別だった。

ソウルに住居を構えたミョンホは、生活のために建設業をはじめ様々な職を転々とした。

「私たち脱北者には、都市部では未来がないということがわかった。だから、身につけた潜り漁を行いながら、家族が生きていける場所を探した」。
 

韓国に7人しかいない“モグリ”として生きる

 
 
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こうして2008年、一家は祖国に隣接する韓国最北の港町デジンに移り住んだ。
漁師として生きる新たな人生がスタートした。

早朝、日の出とともに、故郷の名を冠した漁船“チョンジン号”で北朝鮮との境界線に接する漁場へと向かう。
接近する他の漁船を注意深く見張り、舵輪を操作するのは長男のチョンジュル(28)だ。
子供の頃から航空会社のパイロットになることを夢見ていたチョンジュルだが、まさか自分が韓国の地で漁船を操舵するとは思いもしなかったという。

家族を守るために漁を学び、海へと向かう父の姿に、心が動かされた。
必要な技術を習得し、今では船長として父の漁船に乗り込む。父子二人三脚で漁を行っている。
 

 
 

ミョンホの漁は、総重量60kgにもなる旧式の潜水服を着用して行うもので、その独特な様は宇宙飛行士のようだ。
「この潜水服は昔、日本から持ち込まれたものだ。だから韓国では潜水士のことを“モグリ”呼ぶ。多くのモグリの仲間が海で死んだよ。私も3度死にかけたことがある」。

この5年間で9人のモグリが死亡していることから、この漁法がいかに危険かがうかがえる。
現在、韓国国内のモグリはミョンホを含めて7人のみだ。

緊張感のある国境の漁場で、そのような危険を伴う漁法を用いながら、キロ3500円以上で取引されるタコを狙う。

潜り始めて約20分後、海面に浮上したミョンホの手には、3匹のタコのほかホヤやナマコがたっぷり入った網が握られていた。
船上で潜水服を脱いだ彼の顔に、安堵の表情が浮かぶ。
そして息子は、すぐに次の漁場へと船を走らせる。
 

再び故郷へ帰る日を夢見て

 
 

ようやく手に入れた平穏な暮らしと営み。そこには傍らで支えてくれる妻の存在も大きい。

ミョンホは、もしこの先自分が死んでも家族が路頭に迷わないよう、妻のために海鮮レストランを開いた。海辺にあるレストランには、妻が作る北朝鮮の伝統的な海鮮チゲとミョンホが海で獲った新鮮な魚介の刺身を求めて、連日多くの客が訪れる。
昼になると漁から戻ったミョンホとチョンジルが、休む暇なく店の手伝いをする。

「妻と結婚したことが自分の人生で一番の幸せだと思っている。死を覚悟して一緒に韓国に付いて来てくれたことに、心から感謝している」。

将来、南北が統一され祖国に未来が見えたら、また故郷で暮らしたい−−それがミョンホの今の本心だ。
家族全員で“チョンジン号”に乗り、再び故郷へ帰れる日を夢見ている。

(報道カメラマン 横田 徹)

 

横田徹
横田徹

報道カメラマン