「絶対に来年は、この舞台で活躍する」

2022年12月30日。

富士山女子駅伝を走ることができなかった玉川大学の3年生、山田桃愛選手は、強く心に決めた。

走れなかったことはもちろん、「私がいなくてもチームは戦える」という現実が、何より悔しかった。

5000mを15分台で走ると「学生トップクラス」と言われる中、山田選手の当時のベストタイムは17分8秒89。この時は、まだ無名の存在だった彼女の競技人生は、今年に入り、劇的に変化していく。

“無名の選手”から「学生日本一」へ

4年生になり、「陸上競技を続けるのは、あと1年」と決めて挑んだ学生最後のシーズン。

3000m障害を主戦場とする山田選手は、シーズン初戦となった3月の競技会で同種目の自己ベストを一気に22秒更新すると、翌月の日本学生個人選手権で3位に入り、全国の舞台で初めて表彰台に上がった。

2023年4月 日本学生個人選手権で初の表彰台
2023年4月 日本学生個人選手権で初の表彰台
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5月の関東インカレでは2位となり、翌月の日本選手権の参加標準タイムも突破。

その日本選手権で6位入賞を果たすと、9月には学生日本一に輝いた。

そして、5000mでは今季日本人学生9位となる15分50秒92をマーク。今年1年で自己ベストを1分18秒も更新し、「学生トップクラス」の仲間入りを果たした。

さらに、駅伝でも10月の全日本大学女子駅伝の3区で区間2位の好走を見せると、初めて埼玉県の代表に選ばれた東日本女子駅伝では2区で11人抜き。圧巻の走りを見せ、実業団選手を抑えて区間賞を獲得した。

玉川大学4年生 山田桃愛選手
玉川大学4年生 山田桃愛選手

チームメイトや監督、何より本人が「想像もできなかった」という急成長。

順風満帆な2023年のシーズンを送る彼女だが、これまでの競技人生は、波瀾万丈なものだった。

白血病…「また走りたい」という想い

『古代の中国で桃が愛されていたように、人を愛し、愛されるように』という願いを込めて「桃愛(ももあ)」と名付けられた少女が、陸上競技と出会ったのは、小学2年生の秋。

当時通っていたバレーボールクラブの先輩に誘われて陸上クラブに入った。小学4年生と5年生の時には、小学生を対象としたレースとしては最大規模の「S&B杯ちびっ子健康マラソン」の東京大会と群馬大会でそれぞれ連覇。すぐに才能を開花させ、メキメキと力をつけていった。

そんな彼女に試練が訪れたのは、小学6年生の時だった。

2013年9月17日。

高熱と股関節の痛みが続き、病院で検査を受けた。

診断された病名は、「慢性骨髄性白血病」。

緊急入院の末、4カ月間の車椅子生活を送ることになった。

中学1年生の秋まで約1年間、走ることができなかったが、そこである想いに気付いたという。

2013年 小学6年生 4カ月間車椅子生活を送る
2013年 小学6年生 4カ月間車椅子生活を送る

「あと少し病気に気付くのが遅かったら、骨が潰れてしまっていたかもしれなかった。もし、そうだったら今、走れていなかったかもしれないので不幸中の幸いでした。走れない期間があったことで、走りたいという気持ちが強くなりました。『また走りたい』という想いが白血病治療のモチベーションになっていました」

治療を続けながら、中学校では陸上部より走れるからという理由でバスケットボール部に入り、バスケの練習をしながら“助っ人”として駅伝に出場。高校では陸上部に入部して、部活一色の学校生活を送った。

大学は小学2年生からの夢だという教師を目指して、教育学部のある玉川大学に進学、そして。

玉川大学では教職課程を履修
玉川大学では教職課程を履修

「自分の限界が、どこにあるか知りたい」と女子駅伝チームの門をたたいた。

”憧れの舞台”で骨折…遠のいた駅伝出場

白血病は7年間の治療の末、大学1年生の夏には“寛解状態”まで回復。大学2年までは、休ませていた体を、いかに目覚めさせるかという期間になった。

そして2022年。3年生になると、初めて駅伝のエントリーメンバーに選ばれ、目標だった日本インカレにも出場することができた。

しかし、その憧れの舞台で、再び試練が訪れる。

2022年 日本インカレで転倒 骨折(左)
2022年 日本インカレで転倒 骨折(左)

出場した3000m障害の最後の水濠で転倒。懸命のラストスパートで9位でフィニッシュしたものの、転倒の影響で左足を骨折。大学3年目の駅伝シーズンも走ることはできなかった。

「骨折して駅伝メンバーから外れて、目標も失って、何をしたらいいのか分からなくなりました。夢だった全国の舞台で結果を残せたという達成感もあって、もう陸上は辞めようかなと思いました」

そんな彼女を繋ぎ止めたのは、母・ひろ美さんの一言だった。

母の一言が救ってくれた
母の一言が救ってくれた

「本当にそれでいいの?」

いつも厳しく接してくれる母の言葉で「まだ、ここが私の限界ではないな」と思えたという。

骨折から1年。再び日本インカレに出場した山田選手は、3000m障害で優勝。日本一の栄冠を手にした。

2023年9月17日 初の学生日本一に輝く
2023年9月17日 初の学生日本一に輝く

この日ばかりは、母・ひろ美さんも褒めてくれたという。

2023年9月17日。

白血病と診断された小学6年生のあの日から、ちょうど10年が経っていた。

限界の先への挑戦と ”富士山”への誓い

山田選手には、去年の富士山女子駅伝の日から続けていることがある。

それは、毎日走ること。

競技人生の最後の一年、悔いが残らないようにと決め、体調が優れない日でも、とにかく一歩を踏み出すことにした。走ることを習慣化したことによって、苦手意識のあった体重管理も上手くいくようになり、そこから少しずつ状況は変化していったという。

もうすぐ目標を立ててから1年を迎えるが、変わらず毎日走ることは継続している。

変わったことがあるとすると「陸上競技最後の1年」ではなくなったことだ。

玉川大学の柱としてチームを引っ張る
玉川大学の柱としてチームを引っ張る

「まだ自分の限界はここじゃないと思えたので、これから先も挑戦していきたい」と卒業後は実業団に進み、競技を続けることを決めた。

そして、次の目標もできた。

それは、日本代表になって世界大会に出ること。

もちろん、その前に果たしておきたいことがある。

去年の富士山女子駅伝、そして今年10月の全日本大学女子駅伝のリベンジだ。

全日本では、わずか1秒差で区間賞を逃し、チームも9位で目標の8位入賞に惜しくも届かなかった。

「自分が結果を出すことで、病気の時に支えてくれた人に感謝の気持ちを表したいというのもあるし、自分がどこまで行けるのか、走れるのかを知りたいです。富士山女子駅伝では、チームとしては8位入賞、個人では区間賞が目標。自分の走りで玉川大学を入賞に導きたいです」

「どこまで行けるのか 走れるのか」
「どこまで行けるのか 走れるのか」

駆け抜けた、山田桃愛選手2023年の集大成。

12月30日。霊峰富士の麓を舞台に、シンデレラストーリーはクライマックスを迎える。

「絶対に今年は、この舞台で活躍する」

大学女子駅伝の頂点へ
2023富士山女子駅伝
12月30日(土)あさ9時55分~
フジテレビ系にて生中継