82年前の12月8日は、太平洋戦争が始まった日だ。太平洋戦争末期に特攻機の中継基地となった熊本県の菊池飛行場で整備兵として働いていた男性が、当時のことを語った。
太平洋戦争開戦から82年…菊池飛行場
旧陸軍・菊池飛行場は、太平洋戦争末期に特攻隊の中継基地となり、多くの若者が出撃地へ向け飛び立った。終戦の年の5月にはアメリカ軍による爆撃を受け、特攻隊員や少年兵など、約70人の尊い命が奪われた。

菊池飛行場の歴史や役割などについて調査・研究している「花房(菊池)飛行場の戦争遺産を未来に伝える会」などは2023年、菊池飛行場を経由した特攻隊について調査。その結果、少なくとも38の部隊が菊池飛行場を利用していたことがわかった。
現在93歳 特攻機の元整備兵が証言
菊池飛行場に併設された航空分廠(ぶんしょう)で、特攻機の整備を担当していた元整備兵の飯川一則さん(93)も、当時のことをはっきりと覚えている。

元整備兵・飯川一則さん:
飛行機には、発電機、圧力計、風力計など、いろんなものが付いている。わたしたちは電精班といって、それを一つ一つ修理するわけです。確かなものか、機械にかけて。花房(菊池)飛行場は、各機器の整備が確実だと評判だった。特攻は任務の最後だから、立派な整備をしてもらおうと

元整備兵・飯川一則さん:
わたしは子ども(15歳)だった。整備をしているところに隊員たちが来て、「坊や、よく整備しといてくれよ。俺たちは、ご飯はあと2度だからな」って言うて…。

元整備兵・飯川一則さん:
笑顔とは裏腹に、何とも言えない、夢を見ている気持ちだったのではないか。俺は本当に死んでいくんだろうか…と
「菊池飛行場と特攻隊」の企画展
菊池飛行場ミュージアムで開催中の展示会では、飯川さんの証言のほか、特攻隊員と地域住民との交流の様子なども紹介されている。

この「菊池飛行場と特攻隊」の企画展は、2024年3月まで開かれる予定だ。
(テレビ熊本)