人格者だと評価する声は少ない。自ら「とんがっている」と評するくらいである。その激しい性格から、叱責された人たちは数多くいる。それでも幅広い人脈と情報収集能力、ずぬけた中国観で日本の対中外交を牽引してきたのが、このたび退官が決まり、帰国した垂秀夫駐中国大使である。

退任にあたっての記者会見(12月4日)
退任にあたっての記者会見(12月4日)
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はっきりした物言いと前例にとらわれない考えは官僚の世界では異端であり、味方も多いが敵も作ってきたことを容易に想像させる。中国語を専門に扱う「チャイナスクール」のリーダーとして、中国の最前線に立ち続けてきた日々を振り返る。

昔ながらの“おっちゃん”

典型的な「昭和の人」であったと思う。挨拶や礼儀に厳しく、情に厚くて涙もろい。ハラスメントすれすれ、率直に言えばNGなことも多々あったと聞く。記念写真を撮影する際、一番の若手が撮影役を買って出なかったことに叱責の声をあげたことがある。館員は涼しい顔であったが、大使館での日常が想像できる出来事でもある。

垂氏は学生時代、ラグビーをしていた
垂氏は学生時代、ラグビーをしていた

一方で中国がウィーン条約に違反し、日本の外交官を拘束した事件(2022年2月)では「『命がけで救う』と闘志をむき出しにしていた」(外交筋)という。帰国する直前、スパイ容疑で拘束された日本人男性に直接面会をしたのも「事件を風化させてはならない」という自身の強い思いが背景にある。退任の記者会見では「人の道」という言葉を繰り返していた。

日本人拘束など、厳しい話では表情が引き締まった
日本人拘束など、厳しい話では表情が引き締まった

「昔ながらの関西のおっちゃん」(同)で、特に若手の官僚には課題やアドバイスを単刀直入に伝えていたという。外務省内に「垂派」があったとは思わないが、出来不出来、向き不向きを鋭く見抜いて人を使ってきただけに、チャイナスクールの間では「垂印」の有無は自然に付いていたように見える。

付き合いの濃淡がわかりやすく出ること、叱責する人、しない人を明確に分けていたことなどを勘案すると、シャイな一面もあることがうかがえる。

歴史に評価される外交を

前例踏襲を潔しとしない人であった。大使館内では「俺が責任を取るからまずやれ」とたびたび指示していた。実際、東京に黙って大使館が動いたことが何度もあったと聞いた。本人曰く「政府のためでも外務省のためでもない。歴史に評価される外交をやるべきだ」。官房長時代、外交文書を公開する際には黒塗りで隠す部分を出来るだけ少なくするよう指示していたという。

中国にとって垂氏は理解者でもあり、警戒すべき対象でもあった
中国にとって垂氏は理解者でもあり、警戒すべき対象でもあった

大使自身が柱のひとつにあげていた日本企業支援では「互助団体的だった」(垂氏)中国日本商会の組織改革を行った。方向性には賛同しながらも、現状維持を求める声も根強く、冷ややかな評価が聞かれることもあった。

その卓越したリーダーシップは日本大使館の独自性や存在感を高める一方、本省(外務省)とのあつれきは深刻になっていった。「当初はまだ任期があるはずだった」(外交筋)というが、東京との温度差を意に介さない愚直さが退官時期を早めた側面もある。

飛び抜けた中国観

中国観は言わずもがな、突出している。

公開情報が少ない中国をはっきりとした言葉で分析、評価するのは取材した記者なら誰もが感じたことだろう。「起きた事象に大使自身の経験を加えると、自動的に答えが出るようになっていた」(外交筋)との解説が聞かれたほどだ。ほんの一時期を除き、中華圏のみを担当してきた経歴も異例だ。

垂氏の中国人の友人は「温かい人」ばかりだ
垂氏の中国人の友人は「温かい人」ばかりだ

多くの中国人の友人を持ち、話題には事欠かなかった。「中国政府と中国人を分けるべき」というのは垂氏のみならず、中国に住む人たちの多くが感じることだが「坊主憎けりゃ袈裟まで・・は本当にやめた方がいい」とよくこぼしていた。

中国の変化にも期待していたが、今の体制では望むべくもないと判断したのか、晩年は「自分の任期中に中国が変わることはない」という諦めに似た心境を聞いたことがある。「時代が自分を求めていない」とも。それでも一人の外交官として、自分の考えやアイデアを具体的な政策に落とし込むことに最後までこだわっていた。

政治家らとの密な関係

政治家に食い込むことに長け、菅前首相、自民党二階元幹事長らとの太いパイプは有名だ。課長時代、ある総理大臣に真っ向から反論したことでも知られる。「典型的な人たらし」(外交筋)というように、政治家へのアドバイスや対中関係での「仕掛け」は数多くあったと聞く。垂氏自身が政治家的な思考を持ち、動いてきたとも言える。

日中首脳会談では戦略的互恵関係の推進が再確認された(11月16日)
日中首脳会談では戦略的互恵関係の推進が再確認された(11月16日)

かつての日中関係のコンセプトで、11月の日中首脳会談でも再確認された「戦略的互恵関係」は垂氏の発案である。「個々の具体的な問題に終始するだけでなく、互いの戦略的利益のため、懸案があっても粘り強く意思疎通を強め、日中関係の安定を図っていく」との思いを垂氏自ら強調していた。

“戦いばかり”の日常

垂氏は大使としての日々を「戦いばかりだった」と振り返る。ひとつは中国。度重なる中国側の抗議に対して、必ず反論していたという。ある中国外務省の幹部を論破したこと、別の幹部を激高させたことなど、その逸話は枚挙にいとまがない。

中国外務省では数々の”バトル”があった
中国外務省では数々の”バトル”があった

館員にも「『受け入れられない』のひと言でもいいから言い返してこい」とたびたび檄を飛ばしていた。当然、中国側からは煙たがられる存在でもあり、垂氏の交代に中国側からは「ほっとしている」という声も聞かれた。

もうひとつの戦いは日本国内の保守派。中国を批判する人たちだからこそ、中国の正確な実態を語り、真っ当に批判させるようにしていた。垂氏が帰国した際には必ず保守派の論客らと会っていたという。ただ、垂氏自身は批判一辺倒を避け、国益を優先して行動していた。「常識と理性」をもとに真っ当な外交をすべきだという考えで、自身が保守派から必要以上に支持されることを嫌った。

日中国交正常化50周年の式典では「友好」という言葉を使わなかった(2022年9月)
日中国交正常化50周年の式典では「友好」という言葉を使わなかった(2022年9月)

もうひとつは「チャイナスクール的なもの」。中国におもねるような外務省の対応を嫌い、官僚組織の弊害を常に指摘していた。「お前ら(外務省)は何を守ろうとしているんだ」「みんな出来ない理由ばかりを持ってくる。どうしたら出来るかを考えろ」という話を何度も聞いた。その垂氏は前述した官房長、官房総務課長を歴任している。外務省という組織の奥深さを感じざるを得ない。

俺もデコボコだらけ・・・

北京に赴任してからまもなく、垂氏の話を直接聞く機会に恵まれた。日本風居酒屋が軒を連ねる繁華街の焼き鳥屋だった。「みんなデコボコがあるんだよ。俺もデコボコだらけだ」という愚痴に近い話が今も印象に残っている。

北京市の繁華街。日本風居酒屋が並ぶ
北京市の繁華街。日本風居酒屋が並ぶ

中国と向き合う毎日はもとより、組織の運営、館員の指導などに疲弊しているのが目に見えて感じられた。短気で直情的な自身の性格を省みていたのかもしれない。

中国には「高処不勝寒」ということわざがある。「高いところに行くと寒さに勝てない」転じて組織のトップや要職に就くと味方や理解者が減っていくことを言う。やっかいな中国を相手に全力で戦ってきた垂氏の孤独はいかばかりか、想像すら出来ないが、これほど規格外の人と中国で同じ時を過ごせた経験は貴重だった。

大使公邸にある桜。毎年綺麗な花を咲かせる
大使公邸にある桜。毎年綺麗な花を咲かせる

垂氏が帰国する3日前、神戸市と中国・天津市の友好都市50周年を記念した写真コンテストが北京の日本大使館で開かれ、写真家でもある垂氏があいさつした。写真家としての言葉を聞くのはほぼ初めてだったが、原稿はなし。笑顔を交え「あのね」などと呼びかけるリラックスしたものだった。

普段のスピーチと違い、写真の世界を語る垂氏は楽しそうだった
普段のスピーチと違い、写真の世界を語る垂氏は楽しそうだった

「写真を撮ると、これまで見えていなかったものが見えてくる」

「写真の中には物語が収まっている」

など情緒的、観念的な話が多く、通訳が四苦八苦していた。

垂氏の今後の夢は「もし日本政府が許すなら」という前提付きの「写真家」だが、優先するのは外交官としての使命感か自らの夢の実現か、その心中は今も複雑なのかもしれない。
【執筆 FNN北京支局長 山崎文博】

山崎文博
山崎文博

FNN北京支局長 1993年フジテレビジョン入社。95年から報道局社会部司法クラブ・運輸省クラブ、97年から政治部官邸クラブ・平河クラブを経て、2008年から北京支局。2013年帰国して政治部外務省クラブ、政治部デスクを担当。2021年1月より二度目の北京支局。入社から28年、記者一筋。小学3年時からラグビーを始め、今もラグビーをこよなく愛し、ラグビー談義になるとしばしば我を忘れることも。