津波と火災などで甚大な被害をもたらした北海道南西沖地震から7月12日で30年がたった。当時、北海道奥尻島で教師生活を始め被災した男性は、震災から30年を迎えた2023年、町唯一の高校に着任した。ここで見えた希望の光とは。
30年ぶりに戻った島で校長に
奥尻高校・千葉健史校長:
おはよう、おはよう
生徒:
おはようございます

子どもたちを迎える奥尻高校校長の千葉健史さん(54)。
奥尻高校・千葉健史校長:
(これまで)勤務していた学校の校長先生が外に立つ人が多かったので、私も校長になったらやりたいなと思っていた
島唯一の高校「奥尻高校」には、生徒55人、教師16人がいる。

2023年春、千葉さんは校長への昇進を機に、札幌市の高校から奥尻高校に赴任した。
奥尻高校・千葉健史校長:
(震災から)30年で赴任するというのは奥尻に縁を感じました
奥尻での教師生活はこれが2回目。あの時の島を知る、数少ない教師だ。
「自分が生きているのか」教員住宅を襲った津波
1993年7月12日午後10時17分に発生した北海道南西沖地震。

最大29メートルの津波に襲われた奥尻島では172人が死亡。行方不明は26人。
千葉さんは当時、島の北部にあった稲穂小学校の教師だった。
児童は全員無事。しかし、児童の家族1人が犠牲になった。

小学校はほかの学校を間借りして再開。全壊と判定された稲穂小学校は解体された。

あれから30年。千葉さんは忘れられない場所を訪れた。
奥尻高校・千葉健史校長:
この辺だった記憶なんですよね。ここ辺りに教員住宅が2軒あって

教員住宅にいた千葉さんは津波に飲み込まれたが、屋根の天井部分につかまって助かった。
奥尻高校・千葉健史校長:
1時間くらいは自分が生きているのか死んでいるのかよくわからない状態でした。放心状態というか
旧稲穂小学校は、奥尻の歴史を学べる資料館になっている。

ここを訪れると苦しい時期をともに過ごした子どもたちを思い出す。
奥尻高校・千葉健史校長:
この写真を見たらあの時を思い出しますね。この写真は震災直後に撮ったやつです。その当時の子どもたちが今でも来るんじゃないかって気持ちになりますね

しかし今、島にかつての教え子は5人ほどしかいない。
奥尻高校・千葉健史校長:
私がいたときは人口が4,000人以上いたので、お店も多かったと思うので、それを考えるとちょっと寂しい感じはしましたね
震災のあった1993年、約4700人だった島の人口は、半数以下の約2,300人に。

震災以降、急激に人口が減少した。
進む人口減少… 希望は「島留学生」
さらに、コロナ禍によって漁業に並ぶ産業だった観光も大打撃を受けた。

そんな中…・
ーーどちらから来ましたか?
奥尻高校の"島留学生":
僕は北海道の様似町というところなんですけど。地元の高校に行くと顔ぶれ変わらないので、一からいろんなことを学びたいなと思って来ました

奥尻高校は2017年に全国から生徒を募集する「島留学」を始めた。全校生徒55人のうち、40人が島外からの留学生だ。
奥尻高校では全国でも珍しいスキューバダイビングの授業があり、国家資格の潜水士にも挑戦できる。

海は怖い。でも美しく豊かだ。それを授業を通して学んでいく。
札幌市からの"島留学生"(3年生):
海がめっちゃきれいだし、学校の授業でスキューバーできるし、親元を離れてみたかったなっていうのがあったので、いいかもと思って来てみました

北海道長万部町からの"島留学生"(3年生):
社会性とか人間性を育むために奥尻高校に来ました。新しい友達や新しい趣味もできて本当に良いことがたくさんありました
千葉県からの"島留学生"(2年生):
(卒業後)お世話になったこの地に自分のお店を開けたらなと思っています

島留学生として奥尻高校を卒業し、実際に島で働いている人もいる。
島で生きると決めた元島留学生の決意

北海道・北広島市出身で、島留学生として2018年に入学した仲川明夢さん(20)は、2021年に奥尻高校を卒業後、島の漁師になった。
仲川明夢さん:
島の漁師に憧れてテレビで奥尻島を知って、これは僕も行くしかないなみたいな。島留学に行ってみようと
船舶免許も取得し、2023年4月、念願の漁師になった。
仲川明夢さん:
死ぬまで奥尻島を活性化させていけたらなっていう気持ちもあります。奥尻島で楽しく生きていきたいなって、僕にとって最後の地みたいな
若者たちの笑顔が島を照らしている。それは希望の光だ。
奥尻高校・千葉健史校長:
島留学で全国各地から来ていただいて、この奥尻島の良さ、島の人たちの暖かさ、そういうのは奥尻に来ないと感じられないと思うので。この3年間で自分の人生の土台を作ってもらえたらと思います

奥尻で学び、奥尻で生きる。若い力が島の未来を作っていく。
(北海道文化放送)