累計115万人が来場し、大盛況のうちに幕を閉じた、「仙台市全国都市緑化フェア」。杜の都を彩った花と緑は、多くの人を楽しませた。一方、会場となった追廻地区には、かつて最大4000人が暮らす、ひとつの町があった。行政の施策に翻弄され、特異な歴史をたどった「仙台から消えた町」その地を思い、生きて来た人たちを取材した。

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追廻に残った「最後の住宅」

仙台市での開催は34年ぶりとなった全国都市緑化フェア。メイン会場がある追廻地区には、最終日の6月18日も多くの人が訪れ、季節の花々を楽しんでいた。目標として掲げていた来場者100万人も、最終日の1週間前に達成。イベントは、まさに大盛況のうちに終了した。

大盛況のうちに閉幕した仙台全国都市緑化フェア
大盛況のうちに閉幕した仙台全国都市緑化フェア

フェア閉幕から一夜明け、公園を彩った庭園や花壇の撤去が始まった。大花壇があったメイン会場は芝生広場に整備される予定だ。

一方、この緑化フェアが始まるわずか2カ月前の2023年2月下旬。フェアのメイン会場としての整備が進む追廻地区の一画には、大量の樹木が生い茂った1軒の住宅が残っていた。

佐々木昇さん:
「これは、藤井仙台市長のころに、ここを公園にすると宣言してから切るのをやめたんですよ。切るのをやめてどのくらい伸びるかと思っていたが、ここまで伸びました」

こう話すのは、追廻で生まれ、この家で育った、佐々木昇さん(65)。佐々木さんの住宅の窓から見えるのは、工事車両や作業員の姿。かつて多くの人が支え合いながら暮らした風景ではなく、一つの町が消えようとしている風景だった。

行政と住民「ボタンの掛け違い」生まれた確執

追廻住宅は、終戦翌年の1946年、国が戦争被災者などのために当時国有地だったこの場所に、応急仮設住宅として整備した。戦争で傷ついた人々が身を寄せ合った町は、いわば「仙台の戦後処理の象徴」。雨風を凌ぐのが精いっぱいのバラック長屋620戸、そこに最大4000人が暮らした。住宅を整備した国の住宅営団は1951年にGHQによって解散した。その際、住民たちは仙台市に家屋の買い取りを要望し、国も市に住宅買収を打診したが、当時の市の財政状況から実現せず。住民は、やむなくなけなしの金で住宅を買い取った。以降、住民たちは、国と「借地法」に基づき契約を結び、借地料を支払いながら、自費を投じて住宅の補修や建て替えを行い定住環境を整えていった。

戦争被災者のために応急仮設住宅として整備された追廻住宅 
戦争被災者のために応急仮設住宅として整備された追廻住宅 

正当に住宅を取得し、借地料も支払っていた住民たち。しかし、追廻をあくまで「仮設の住宅」と考えていた仙台市は、1946年に追廻地区を含む青葉山一帯を対象に、大規模な公園整備事業計画をすでに決めていて、追廻住宅を住宅扱いとはしなかった。結果、地区のインフラ整備は置き去りとなり、住民たちは税金を納めているにも関わらず資金を出し合い、道路を舗装し、水道を引いた。国、市、住民の間で生じたボタンの掛け違いは、住民と行政の確執を生んだ。その後、国や市が移転を住民に持ち掛け続けたが交渉は難航した。

難航する住民と仙台市の移転交渉
難航する住民と仙台市の移転交渉

最後の住人…「ふるさと」への愛着

佐々木昇さん:
「中心部の発展と違って、ここはずっと昔のまま。昔の状態の自然が残っていた場所で、私の自慢でした。子どもの頃の景色がまだ残っているんだよって」

引っ越し作業の最中、佐々木さんは工事車両行き交う追廻地区を眺めながら、追廻への思いを口にしていた。戦争を懸命に生き抜いた先、たどり着いた終の棲家で行政に翻弄される親世代の苦労を目の当たりにしてきた佐々木さん。追廻住宅の「最後の1人」となるまで、この地に残った理由とは何なのか。

広瀬川の対岸から撮影された追廻住宅(1970年代)
広瀬川の対岸から撮影された追廻住宅(1970年代)

佐々木昇さん:
「追廻は元々お年寄り多い地域だったんです。この地で最期を迎えたい人が多かった。その中で強引に移転を進める行政の姿勢は疑問だったんです。ここで最期を迎えたい人がいる限り、残ると決めていたんです」

長い年月は町の姿を変えていく。1972年には市による移転補償が始まり、借地契約期限などもあり、移転は加速。住民たちは1軒、また1軒と追廻を去っていき、4年前には、佐々木さんのみに。体力的な限界も感じ、移転に合意し、この地を去る決意をするに至ったという。

追廻を去った人々の思い

高谷正子さん:
「追廻は、玄関を開けると誰でも『こんにちは~』って入って来る感じだった。でも、こっちに来て家から一歩も出てこない人もいるからね…」

追廻からの集団移転に応じ、宮城野区新田で暮らす高谷正子さん(84)
追廻からの集団移転に応じ、宮城野区新田で暮らす高谷正子さん(84)

こう話すのは、仙台市が2011年、追廻地区の住民の集団移転先として整備した、宮城野区の新田住宅で暮らす高谷正子さん(84)だ。半世紀以上の時間を追廻で過ごし、仙台市の移転交渉に応じた一人だ。

「鍵をかける家の方が珍しい」「調味料の貸し借りは当たり前」だったという追廻の生活。戦争で傷ついた人々が支え合い、人情にあふれた町だった。ともに集団移転した、気心が知れた仲間が集まれば、自然と追廻の話に花が咲くのだという。

ともに集団移転した人たちで集まると 話題になるのは追廻の話ばかりだ
ともに集団移転した人たちで集まると 話題になるのは追廻の話ばかりだ

「出ていかなければいけないことは覚悟はしていた」という高谷さん。一方で、長年住んだ土地への愛着、濃密な暮らしは色濃く脳裏に残っている。その思いは、行政との交渉を続ける原動力としては十分だった。

一つの町が消えた日

2023年2月下旬。追廻地区に残された最後の1軒、佐々木昇さんの住宅の解体の日。姉家族も駆けつけた。ショベルカーが壁を引きはがしていく様子をじっと見つめる佐々木さん。ショベルカーが移動するたびに立ち位置を変えながら生まれ育った我が家の最後の姿を見守る。

佐々木さんの住宅解体の日 親族も駆けつけた
佐々木さんの住宅解体の日 親族も駆けつけた

佐々木昇さん:
「生まれ育ったところで私の原点です。残れるのが一番なんですけどね…色々ありすぎて問題を単純化できないんですよ」

様々な思いが交錯する中で、信念を持ち、この地に留まり続けた佐々木さん。消えゆく故郷を見守るその顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。

佐々木さんが追廻を去って2カ月。フェア開幕を2週間後に控えたこの日、公園の整備が進む中、一つの石碑が運び込まれた。「追廻住宅ふるさとの碑」と書かれた石碑は、住民たちがこの地を去る際に、仙台市と設置を約束したもの。追廻という町が存在していたことを示す記念碑だ。

かつて、この場所に確かにあった、人々の暮らし。忘れてはいけないものが、そこにはある。

※記事中の時系列は「追廻住宅親和会60年のあゆみ」を参照しています

(仙台放送)

仙台放送
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