昨シーズン限りで38年の審判人生に幕を下ろした、NPB日本野球機構の橘高淳(きったか・あつし)審判。

60歳の定年を迎えた最終シーズン、4月10日のロッテ対オリックスの試合で球審を務め、令和初、そして自身も初めての経験となる完全試合に立ち会うことになった。

通算3001試合に審判として出場した橘高さんが、38年の審判人生で最も印象に残っている試合や、目の前で見た“歴代最高”の投手たちを明かした。

球審デビュー戦での達川光男の言葉

橘高さんは1981年に阪神に捕手として入団するも、わずか4年で戦力外になった。阪神のブルペン捕手として球団に残るも1年で退団。

寮(虎風荘)を出て実家に戻りアルバイトで生計を立てていた時、寮長から審判を打診され、1985年に審判への転身を決意。ここから審判としての第2の人生をスタートさせる。

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橘高さんが初めて球審を務めたのは、1990年6月の広島対ヤクルト戦。

「緊張の連続だった」というこの試合は延長で広島・山崎隆造のサヨナラ本塁打で幕を閉じた。それだけに強く印象に残っているという。

この年の広島の正捕手は達川光男。しかしこの試合は控えの植田幸弘がマスクを被っていた。

当時、達川は審判に見にくいキャッチングが得意で、経験の浅い審判にとっては審判泣かせの嫌な存在で、「スタメンじゃなかったことにホッとした」と明かす。そんな達川が5回裏の投球練習を受けに来た際に、橘高さんに「今日は一球も判定間違いがないよ」と言ったという。

この事は今でも鮮明に覚えているそうだ。

日本シリーズでの球審デビュー戦

そんな球審デビュー戦を飾った橘高さんは、「そういえばこの試合も…」ともう1試合を挙げた。

日本シリーズで球審を務めた2003年の阪神対ダイエーの第4戦。星野監督率いる阪神がムーブメントを起こし、18年ぶりのリーグ優勝を果たした年だ。

甲子園球場は黄色一色に染まる中、試合は延長までもつれ、当時の阪神再建の立役者・金本知憲が劇的サヨナラ本塁打。

橘高さんは自身の球審人生について「延長戦とサヨナラホームランに何か縁があったんだな」と振り返る。だからこそ「3000試合を超える試合に出場した審判人生で、最も印象に残っている試合は?」という質問に、この2試合を挙げたのだろう。

名審判が選ぶ最高の投手

橘高さんに最高の投手3人を挙げてもらうと、真っ先に名前が出てきたのは、巨人の斎藤雅樹だった。

バッターの手元で大きく変化するスライダーにサイドからの威力抜群のストレート。何よりマウンド上でのエースならではの仕草やマナーの良さは群を抜いていたそうだ。

「キレもコントロールも良かったですし、テンポもフィールディングもマナーも良かったですし、本当に平成の大エースでしたね」

続いて名前を挙げたのがダイエー斉藤和巳とヤクルト川崎憲次郎だ。

斎藤和巳は故障により活躍した期間は短かったが、「コントロールとストレートの素晴らしさは印象的。ケガが無かったらどんな記録を残す投手になっていたか」と思うそうだ。

川崎も最後は故障に泣いたが、橘高さん自身が当初セ・リーグで審判を務めていただけに、川崎が登板する多く試合で球審を務めた。とにかく伸びのあるストレートに、何よりボールの軌道が圧倒的に奇麗だったそうで、橘高さんはこのストレートを「ビューティフル・ファーストボール」と呼んでいた。

「そういえばもう一人凄い投手が…」と名前を挙げたのが、阪神の藤川球児。

一軍の試合に出始め、ジェフ・ウィリアムス、久保田智之と共に勝利の方程式「JFK」と呼ばれた時代の藤川だ。とてつもない速さで、誰とも比較のできない伸びのあるストレート。この8回に投げていた時の藤川のストレートは、ダントツですごかったという。

さらに藤川球児を改めて凄い投手だと感じたのはMLB~独立リーグを経て、2016年に阪神に帰ってきてからだという。

阪神へ復帰したばかりの藤川は、橘高さんの目にはかつての面影を思い起こさせなかった印象で、先発した4月の広島戦で、5回途中6失点でノックアウトされてしまう。

橘高さんは長きにわたる審判人生で、多くの大投手が投手人生の終わりに近づく瞬間を感じ取ることがあるそうだが、藤川の終わりを予感したその数試合後に、明らかに違う藤川の姿を見たという。

そして最終的に2019年には、クローザーに返り咲くなど復活したマウンドを見届けてきた。この時に「常識を超えた投手・藤川球児の凄さを見たような気がする」と振り返る。

この話で思い出したのか、先ほど“いの一番”に挙げた球界の大エース・斎藤雅樹。この凄い投手が終わりに近づく姿は印象的だったという。

まず打者が当たり前のように振っていた切れ味の鋭いスライダーに対し、徐々に振らなくなっていく。

「変化は変わらないと思うが、ホームベースより手前の部分で曲がりポイントがが早くなった印象。さらに抜群のコントロールを誇っていたが、きわどいボールがベースにかからなくなった事がとても印象に残っています」

衝撃を受けたパ・リーグの打線

この時に大投手が年と共に第一線から外れる厳しさを知り、その後も同じような経験を繰り返したという。

セ・パ交流戦がスタートする前は、ほぼセ・リーグの審判中心だったこともあり1997年〜99年の横浜ベイスターズのマシンガン打線が印象的だったというが、日本シリーズで見たダイエー打線の迫力には最も衝撃を受けたという。

1999年の日本シリーズ、ダイエー対中日。

小久保裕紀・城島健司・松中信彦・井口資仁・柴原洋…若くてパワーのある打者が続き、さらに外国人が加わる打線には、セ・リーグからは感じ取ることが出来ない迫力を感じたようだ。

一方で選球眼について聞くと、セ・リーグの巨人・松井秀喜の名前を挙げた。その選球眼の良さに驚きを隠せなかったようだ。

一番印象的な試合「番外編」

最後に番外として、一番“印象的”な試合に1994年5月11日のヤクルトvs巨人戦を挙げた。

野村・長嶋の舌戦が注目を集め、常に優勝を争っていた両者。審判の中でも「何かが起こる」という緊張感が常にあり、この試合までも死球をめぐり因縁めいたことが続いていた。

それでも起こった乱闘劇…。かの有名な巨人ダン・グラッデンがヤクルト西村竜次のきわどい内角球に対し激高。捕手の中西親志を殴り、大乱闘の末に3人が退場となったあの試合である。

そしてこの試合の翌日は、史上初の出来事があった。後にも先にもないというプレイボール前に球場で報復や乱闘を未然に防ぐための「警告試合」をマイクで宣言した試合だった。

昭和、平成、令和と3つの時代の「日本プロ野球」を見てきた貴重な目撃者・橘高淳。

新たな時代と共にまた生き字引が去っていく。