2022年のノーベル生理学・医学賞は、4万年前のネアンデルタール人の骨に残っていた遺伝子情報から、ネアンデルタール人と我々ホモ・サピエンスの種が交わっていたことを発見した、ドイツのマックス・プランク進化人類学研究所のスバンテ・ペーボ博士に贈られた。

スバンテ・ペーボ博士
スバンテ・ペーボ博士
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受賞が発表された直後、この書評で評者はちょっと意表をつく業績に与えられたとして、以下のように書いた。

「医学生理学賞といいながら、疾病の治癒には直接的な貢献をしていない。しかしダイナミックな着想でロマンがある。遺伝子科学を駆使した研究なので医学生理学賞なのだろうが、これからもこういった『学際的』な研究に与えられることが増えてくるかもしれない」
カルロ・ロヴェッリ著『時間は存在しない』の書評にて)

さて、2022年最後の書評は、この受賞テーマの深くかかわる『人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』(篠田謙一 著・中央公論新社)である。

この本の「はじめに」には以下のような文章が書かれている。

「ノーベル生理学・医学賞は、医学の応用の分野で画期的な業績を挙げた人物に与えられる例が多く、進化人類学のような基礎的な研究への授賞は大変珍しいといえるでしょう。ペーボ博士の研究がノーベル生理学・医学賞の対象となったことは、古代DNA研究が重要な学問分野として国際的に認められたということを示しています」

ほぼ同じような見方だが、長くこの研究を続けてきた著者にとって、門外漢の評者と比べようのない感慨の深さがあったろう。

ここで誤解なきようひとつ付け加えると、「はじめに」に、このような文章があるからといって、この本はノーベル賞発表後に急遽出版されたものではない。評者が手に入れたのは第7版で、初版は2022年の2月、ノーベル賞発表より半年以上早い。つまり、「はじめに」のこの部分は受賞後に付け加えられたものだ。初版の段階では著者も編集者のこの分野にノーベル賞が与えられるとは思いもよらなかっただろう。

解き明かされる“人類の動き”

急いで出した出版物でないだけあって、構成も内容もよく練られ、「ですます調」のソフトな語り口で、人類の発生から世界の隅々にまで拡散していく様子がDNAを通して生き生きと描かれている。

なかでも、旧約聖書中の「出エジプト記」を何となく連想させる「出アフリカ」という人類学用語がなかなかいい感じで雰囲気が出ている。アフリカで旧人から新人となった人類が世界各地に拡散していく契機となった言葉だ。海が割れたあとに現れた海底をモーゼたちが渡っていくような劇的な場面はなかったろうが、それでもその後の人類史の激動を予感させる響きがある。

故郷・アフリカから出ていった人類たちは、ゆく先々で交雑を繰り広げた。その足跡はヨーロッパやアジア、さらには南太平洋諸島・オセアニアにまで及ぶ。また東アジア集団などが、大型動物を追ってベーリング陸橋(ベーリンジア、当時は海峡ではなく細い陸続きだった)を渡った事実もゲノム分析でわかっているらしい。

ところが新大陸にヒトが進出した考古学的証拠が1万6000年までしかさかのぼれず、DNAによる渡ったとみられる2万4000年前との間に8000年前後の空白期間がある。そこで以下のような「ベーリンジア隔離モデル」という学説が提案された。

「三万年以上前にベーリンジアに到達した集団が、最寒気にシベリア側とアラスカ側に発達した氷床に阻まれて数千年間隔離され、このあいだにアメリカ先住民特有の遺伝的特徴を獲得し、その後の地球温暖化にともなってアラスカ側に一気に進出して、現在に続く新先住民集団となったと考えています」

酷寒のベーリング陸橋で数千年、数百世代にわたる期間をよくぞ生きてこられたものだと感心するし、ある種、感動的でさえある。そしてその鬱憤を晴らすかのように、5000人にも満たない北米大陸に向かった初期集団は、いざ北米大陸に流れ込むと爆発的に人口を増加させたことも、遺伝子分析から推定されているのだという。

この本で描かれた世界の各地域での人類の動きは、交雑も含めかなり複雑だが、推測の域を出ないものも含め、そこまで分かりつつあるのかと妙に感心させられる。

もちろん、DNA分析だけで自己完結しているわけではなく、伝統的な頭蓋骨をはじめとする様々な人骨の形態比較や、まだ若い時代(といっても旧石器時代あたりだが)の副葬品などの援用を受けていることは言うまでもない。そういったことが分かりやすく説明されているので、評者も含めた遺伝子のことをほとんど知らない人でも面白く読める一冊である。

ペーボ博士
ペーボ博士

たとえば、古代の人類集団の規模は、遺伝子を精査すればグループ内の近親婚の濃淡から推測されるのだという。また2022年のノーベル生理学・医学賞を受けたスバンテ・ペーボ博士の業績は、我々ホモ・サピエンスとネアンデルタール人との交雑の発見だが、その交雑の時期についても、

「ホモ・サピエンス集団の中で、ネアンデルタール人由来のゲノム領域は世代を経ることに断片化されていきます。したがって祖先の持つネアンデルタール人ゲノム断片のほうが子孫のものより長くなります。この性質を利用すると、断片の長さからホモ・サピエンスとネアンデルタール人の交雑の時期を計算することができます」

この計算によって、従来は8万6000~3万7000年前とされていた交雑時期を6~5万年前にまで絞ることができたという。

さて、アイスマンというヨーロッパでもっとも有名なミイラの名を聞いた人は多いと思う。このアイスマンは1991年にアルプスの標高3270m地点で発見された男性の冷凍ミイラで、5300年ほど前の死亡と分析されている。そのアイスマンの骨組織から抽出されたDNAが2012年に最新鋭の次世代シークエンサによって分析された結果によると、

「血液型はO型、乳糖を分解できないこと、高血圧や心疾患のリスクが高いことなども指摘されており、実際のレントゲン写真でも血管壁の石灰化が確認されています」

次世代シークエンサはシャーロック・ホームズかね、と言いたくなる。

技術の進展が可能にするもの

さて、この書評はノーベル賞の話題で始まったので、最後もノーベル賞の話で締めたいとおもう。

2020年ノーベル化学賞を受賞した1人、エマニュエル・シャルパンティエ氏 
2020年ノーベル化学賞を受賞した1人、エマニュエル・シャルパンティエ氏 

2020年のノーベル化学賞は「クリスパー・キャス9」という遺伝子編集技術を開発した2人の博士に授与された。これによって分子生物学分野は一挙にゲノムを自由自在に編集することが可能になったという。

この技術を使ってネアンデルタール人の脳細胞を調べる研究がはじめられ、さらにこれもノーベル賞を受賞した山中伸弥博士のiPS細胞を使って脳の皮質に似た組織(脳皮質オルガノイド)の培養に成功、その脳機能を調査が現在進められているという。培養された組織は直径1mmほどなので高次の脳機能までは調べられないが、それでもある分野ではホモ・サピエンスのほうが機能的に優れていることが分かってきているらしい。

これだけで驚いてはいけない。著者によると、

「このような技術の進展は、理論的にはネアンデルタール人やデニソワ人を復活させることも可能にしています。ヒトに遺伝子編集技術を用いることは重大な倫理的問題を孕んでおり、現状ではそのような研究が進むとは考えられませんが、少なくとも培養細胞のレベルでは研究が行われるようになっているのです」

いやはや、数十万年前、アフリカで発生した我々ホモ・サピエンスは、すごい時代に突入したものである。

【執筆:赤井三尋(作家)】

『人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』(篠田謙一 著・中央公論新社)

赤井三尋
赤井三尋

本名・網昭弘 早稲田大学政治経済学部卒業後、ニッポン放送に入社。2003年『翳りゆく夏』で第49回江戸川乱歩賞受賞。2006年フジテレビジョン報道局へ転籍。
【著書】
『翳りゆく夏』( 講談社文庫)
『どこかの街の片隅で』( 単行本・講談社 改題して『花曇り』講談社文庫)
『2022年の影』(単行本・扶桑社 改題して『バベルの末裔』講談社文庫))
『月と詐欺師』( 単行本・講談社 講談社文庫【上・下】)
『ジャズと落語とワン公と 天才!トドロキ教授の事件簿』(単行本・講談社 改題して『面影はこの胸に』講談社文庫)
【テレビドラマ】
翳りゆく夏(2015年1月18日 ~(全5回) WOWOW「連続ドラマW」主演:渡部篤郎)