2022年9月にオーストリア・ウィーンで国際ろう者スポーツ委員会(ICSD)総会が開かれ、2025年のデフリンピック開催地が「東京」に決まった。デフリンピックとは、聴覚障害者のための国際的なスポーツ大会で「ろう者のオリンピック」とも呼ばれている。この大会への出場を目指す関西在住のデフ選手の奮闘を、シリーズでお伝ええしていく。

デフスイマー 金持義和選手

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第1回は、デフ水泳の金持義和(かなじ よしかず)選手(28)。背泳ぎが専門で、2013年ブルガリア大会では、50mで金メダル、2022年5月のブラジル大会では団体リレーで銀メダルを2個獲得した。

佐賀県出身で、大学進学を機に関西へ。現在は株式会社メルカリとプロアスリート契約を結び、大阪府堺市のスイミングスクールJSS深井に拠点を置いて練習に励んでいる。

9月30日、練習の様子を取材した。この日は、スクールの休館日で、スクール支配人でコーチでもある新井昌昭さんからマンツーマンで指導を受けられる貴重な日だ。

金持選手の泳ぎは、力強さよりも優雅という言葉が当てはまります。水と一体化しているかのようにしなやかに泳ぐ姿は、さすがプロスイマー!という感じだ。

水泳を始めたのは生後8カ月のころだった。母親がスイミングスクールのコーチだったので、小さい頃から水泳に親しんでいる。

耳が聞こえづらくなったのは小学校1年の時からだ。徐々に聴力が低下し、現在は、左耳は全く聞こえない。普段は右耳にだけ補聴器をつけているが、外すとほとんど何も聞こえない。

練習の時は、補聴器を外すので、まったく聞こえない。新井コーチとコミュニケーションを取るときは、防水を施したトレーニングメニューに目を通しつつ、口の動きを読み取っている。

また、タイムを計るときは、指文字で数字を伝えてもらうようにしている。

これまで、聴力の低下や、けがなど、多くの困難があった。それでも泳ぎ続ける理由は、目標が達成できていないものに向けて試行錯誤しながら泳ぐことが楽しいから。練習の成果が出て、乗り越えたときに喜びを感じるからだと語った。

手話で話す楽しさ 知ったきっかけは“デフリンピック”

高校2年生の冬に、「デフリンピック」を知ったことがきっかけで、耳の聞こえない他のデフ選手と手話で話す楽しさを知った。水泳を通じて、友達が増えるのも泳ぐ喜びの1つだ。

健常者と話すときは、相手の口を読む。口の動きで、相手の話している内容はほとんど読み取れるが、ずっと相手の口を見ないといけないため疲れてしまい、その結果、人と関わることを避けるようになったことがあった。手話を覚えたことで、性格が明るくなり、よく話すようになりった。

普段は無口な金持選手が、他のデフ選手と手話で楽しそうに話していた姿を見た新井コーチは「デフの選手とはこんなに話すんだ」と驚いたそうだ。

健常者とは、声を出して話すが、同じ聴覚障害者の友人とは手話を使って話すなど、人に合わせてコミュニケーションの形を変えている。

金持義和選手:
僕はどちらかというと手話を使う方が楽。声を出して話すと、聞こえていると勘違いされる。例えば、駅員さんに質問したとき、外国人と思われ英語で返されたことがあります

日本国内でデフリンピックの認知度を上げるには?

日本では、オリンピックやパラリンピックに比べ、デフリンピックの認知度が低いのが現状だ。2014年に日本財団パラリンピック研究会が行った調査結果では、国内でのデフリンピックの認知度は11.2%だった。

デフリンピックに出場し、メダルの獲得を目指すなら、大半のデフ選手は、練習着の用意や練習環境、コーチの手配などすべて自分でやることを求められる。

また、国によってデフリンピック選手に対する待遇や認知度が大きく違う。例えば、デフ水泳の強豪国ロシアは、オリンピック選手並みに国から手厚いサポートがある。(ロシアはウクライナ侵攻問題で、ブラジルデフリンピックに参加していない)

(Q:日本人選手の自己負担が大きいのはどう思う?)
金持選手:
幸いなことに僕は、今の会社(メルカリ)とアスリート契約をしていて、会社から色々とサポートしてもらっています。ただ、デフ水泳チームの中には学生もいて、学生にとっては大変だろうな、きついなと思います

日本デフ水泳協会はクラウドファンディングでお金を集め、選手の自己負担を減らす工夫をしたり、金持選手が小さい時から応援してくれている人や同じ障害を持った方が募金活動する際に、広告塔になるなど協力をしている。

ブラジルデフリンピック 出場したものの志半ばで帰国

2022年5月にブラジルのカシアス・ド・スルでデフリンピックが開催された。しかし、日本人選手団の中でコロナ感染者が続出し、大会期間中の5月11日以降、日本人選手は全競技出場辞退となった。

金持選手も出場予定だった何本かのレースを残して、途中で帰国せざるを得なくなった。

(Q:ブラジルデフリンピックでは、途中で帰国となりましたが?)
金持選手:
僕の場合は結果を残せていなくて…。メダル獲得がかかっていた他の(競技の)選手は、今まで練習してきたことを発揮する場所を奪われ、本当に悔しかっただろうなと思います

大会で結果が出せなかった悔しさで、日本に帰国するとき、「どういう顔して日本に帰ればいいのだろう」とやるせない気持ちになった。また、地元(佐賀)に帰ったとき、落ち込んでいた姿を母親に見せてしまい、心配を掛けてしまったことも自身のつらさを倍増させてしまった。

(Q:次のデフリンピックに向けてどう気持ちを切り替えましたか?)
金持選手:
家族や友人からの励ましで、一気にではないですが、少しずつ気持ちが前向きになってきました

2025年のデフリンピックの開催地が東京に決定 金持選手の心境は?

2025年のデフリンピックの開催地が東京に決まった。金持選手は「日本でデフリンピックの知名度を上げるチャンス」と話した。

(Q:2025年にデフリンピックが東京で開催されることが決まった時はどうでしたか?)
金持選手:

初めて日本でデフリンピックが開催される。今までなかったこと。今まで応援してくれている人たちがレースを直接会場に見に来てくれるいい機会

(Q:2025年東京デフリンピックに向けて意気込みは?)
金持選手:
気持ちは100%戻ってはいないが、少しずつ前に進んで頑張っていきたい。2025年までは、とにかくけがをしないように

現在の目標は、さまざまな障害のある選手が出場する2023年3月のパラ春記録会で、世界大会の派遣標準タイムを突破することだ。

取材の最後に、将来は自身の経験をデフリンピックを目指す聴覚障害の子どもたちに伝えていきたいと話し、この日一番の笑顔を見せてくれた。

金持選手:
僕は新井コーチに出会って、そして会社がサポートしてくれている。そうじゃない選手もいる中、運が良かった。でも、練習着や環境、けがをしたときなどはすべて自分自身で解決しないといけない。だからこそ失敗が多い。もっと勉強してたくさんのことにチャレンジし、その経験と失敗をもとに将来、子どもたちをサポートしたい

ブラジルで完全燃焼できなかった悔しさを、3年後の東京デフリンピックにぶつけ、個人もリレーもどちらも金メダル獲得を目指す。(取材:関西テレビ報道センター 永川智晴)

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