今とは違うかつての部活動に、どんなイメージを持っていますか?

10月17日放送の「ジャンクSPORT」(フジテレビ系)では、今と昔では異なる、名門校の部活動を紹介。「この世の地獄だった」と大人になった今でも身震いするほどの思い出をアスリートたちに語ってもらった。

大久保嘉人「町民全員がスパイ」?

大久保嘉人
大久保嘉人
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サッカーの名門・国見高校に入学した元サッカー日本代表の大久保嘉人さんは、「町民全員がスパイだった」と振り返る。

高校1年生のとき、「サッカー愛が強くで、(地元の人も)『サッカー部頑張れ』みたいな感じで。走っているときに歩いたり、コンビニに行ったりすると、全員スパイです。学校に言われます。だから何もできないんです」と話す。

もし、学校に報告されてしまった場合は、「頭を五厘刈りにされて走らされた」そう。

加えて、女子生徒と話すことも禁止だったようで、それももし見つかってしまったら、五厘刈り。それは「連帯責任で全員だった」と語った。

漫画家・なきぼくろ先生
漫画家・なきぼくろ先生

PL学園の野球部出身で、実体験を描いた漫画「バトルスタディーズ」(講談社)が400万部を超える大ヒットとなった漫画家・なきぼくろ先生も登場。

大久保さんの厳しい部活動ルールに共感し、「僕らは話すどころか、(女子を)見るのもダメだった。なんとなく、女の子おるな」と見ることなく、感じ取っていたという。

青木愛「怒られても剃りたかった」

かつての部活動には、1年生にさまざまな禁止事項があった。

高校1年生の頃は、部活動ではなくアーティスティックスイミングの名門・井村シンクロクラブに所属していた青木愛さんは、女の子らしい格好ができなかったと嘆く。

青木愛さん
青木愛さん

「暗黙の了解で、肩が冷えるからノースリーブ禁止、足が冷えるからショーパン禁止、足踏まれたらケガするからサンダル禁止、捻挫するからヒール禁止、ヘアゴムも色つきは禁止、ピアスも眉毛剃るのも大学生に入ってから。当時はめっちゃ細い眉毛が流行っていたので、剃って怒られていました。怒られても剃りたかった」

川端龍選手
川端龍選手

柔道全国大会常連の近大福山高校出身の川端龍選手は「携帯禁止で、僕は辞書の真ん中を切り抜いて携帯をはめていた。監督の機嫌でたまに(寮に)“ガサ入れ”が来る。情報屋がいて、事前に情報を入手してくるやつがいるんですけど、部屋中に柔道の雑誌やトレーニング器具を置いて、部屋でもトレーニングしていることをアピールしていた」と振り返った。

武尊選手
武尊選手

そんな過酷な中・高時代を過ごしていたアスリートもいる一方で、キックボクサー・武尊選手は「高校時代、楽しくて仕方なかった」と笑う。

「中学から高1までは毎日遊んでいた。モテそうなことをとりあえず全部やる。バンド始めたり、バック転の練習をしたり、金髪にして」と話すと、他のアスリートたちは羨ましそうにした。

しかし、高校入学後2カ月ほどで退学した武尊選手は、その後一気に格闘技にのめり込む。

「退学してから改心して、格闘技に打ち込みました。『K-1甲子園』が退学になった年に開催されて出たかったんですけど、高校在学者しか出られなくて、通信制に入りました。1回退学になっているので、普通の高校に入れなくて、退学になった人が集まる高校があって。入学した日に自己紹介したら『話なげーよ』って机ドンって蹴られた」と語った。

出口クリスタの今でも忘れられない稽古

部活動には“挨拶”のルールもさまざまある。

ゲストの銀シャリと高校時代の“歩調”を実演するなきぼくろ先生
ゲストの銀シャリと高校時代の“歩調”を実演するなきぼくろ先生

なきぼくろ先生は、高校1年生のときは寮から学校までの通学に“歩調”という通学マーチのような号令をかけながら教室の席まで行っていたと明かす。

また川端選手は、「先輩の数だけ挨拶」することが大変だったと話した。

「1人に1回、食堂で10人くらいいると10回挨拶。全員に1回ずつ。塊で10人いるのに、わざと端に1人隠れていることもあって、『お前、俺の分してないよな』みたいなトラップも何回かやられている」と振り返る。

さらに、今でも忘れられない“特訓”についても。

大久保さんは「ほぼ全力で72キロ」走ったことが、今も鮮明に覚えているという。

「思い出しても吐き気するんですけど、12キロ走って山の上に行って試合して、2試合目の合間も走る。2試合目して走って3試合目して、その後階段ダッシュして、最後は12キロ走って帰る。初めて体の中からエネルギーがなくなって、立てなくなりました」

出口クリスタ選手
出口クリスタ選手

松商学園柔道部出身で、現在は柔道カナダ代表の出口クリスタ選手も今でも忘れられない稽古があった。

「1本取りの実戦のような、1本取ったら交代できるのを2、3年生相手に『50本取れ』と言われて。真夏のクーラーのない中、2時間くらい。試合は4分なのに、2時間ですよ!自分ともう一人の子だけで、他は10本とか。なんで?って。結局、もう一人は脱落して、自分は50本取りきって、終わったと思ったら、走りに行くぞと言われた」

寮に“密輸”していた!?なきぼくろ先生

厳しい練習や規則に縛られていた中でも、彼らは試行錯誤して“楽しみ”を見出していた。

なきぼくろ先生は、寮に「フルーチェを密輸」していたと明かす。

なきぼくろ先生が描いたMC浜田雅功のイラスト
なきぼくろ先生が描いたMC浜田雅功のイラスト

「寮ではお菓子が禁止で。でも甘いものが食べたくて、当時は携帯も禁止だったので(親への)手紙で、ポカリスエットの箱の中をフルーチェとすり替えて服と一緒に送ってくれと。それをいろんな所に隠して、3年生がいないときにお椀を探してフルーチェを作る。あのときのフルーチェが一番美味しかった」と懐かしんだ。

フルーチェ以外にもなきぼくろ先生は「カントリーマアムは密輸さえ成功すれば、いろいろなところに隠せる。布団に隠れて数分かけて口の中で溶かす」と、あれこれ策を練っていたという。

出口選手は「部室は女子限定。監督は男性なので入ってこられないので、そこにプリクラとか悪口とか、いろんな落書きを見たり、話たりしていた。部室は何しても大丈夫。女子だけの空間だった」と語った。

また「駅前がオアシス」だったとう川端選手。「学校に寮があったので、学校の中ですべてを済まさなければならない日々。でも2カ月に1回くらい、午後が休みになる奇跡の日があって。そのときだけ駅前に行ける。久しぶりだから、むっちゃゆっくり歩いて、誰よりもゆっくり歩いて、自分が主人公になった感じだった」と話した。

それに同意したのは青木さん。「合宿のプールが地下で、天気も微妙にしかわからなくて、オフもあまりなくて。補食(パンやゼリー)を買ってきていいと一番下なので言われて、お金もらって赤羽のイトーヨーカドーに行くのがすごく幸せでした」とニヤニヤした。

(『ジャンクSPORTS』毎週日曜日夜7:00~8:00放送)