2022年9月23日、西九州新幹線「かもめ」がいよいよ開業する。長崎の観光需要の増加も期待され、開業に伴い新設された駅周辺も様変わりしている。
終着駅となる「長崎駅」は、これまでも、時代とともにその姿を変えてきた。

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被爆前の長崎駅をよみがえらせる・・・被爆2世の男性の思い

長崎に原爆が投下されてから、77年。
被爆する前の長崎駅の姿を模型でよみがえらせることで、平和の尊さを訴えたいという男性がいる。

長崎出身で被爆2世の黒﨑雄三さん、68歳。

特徴的な三角屋根と、内部のステンドグラスが施された、昭和30年代中頃の長崎駅。被爆後、多くの観光客が目にしてきた長崎駅の姿が、実物の約100分の1~200分の1サイズの模型で再現されている。

昭和30年代中頃の長崎駅。三角屋根やステンドグラスが目を引く
昭和30年代中頃の長崎駅。三角屋根やステンドグラスが目を引く
昭和30年代中頃の長崎駅。目の前には路面電車が
昭和30年代中頃の長崎駅。目の前には路面電車が

また、広告を貼った路面電車やアイスクリームの屋台のほか…、

原爆の被害を免れた旧長崎市役所も精巧に作られている。

原爆の被害を免れた、旧長崎市役所
原爆の被害を免れた、旧長崎市役所

黒﨑雄三さん:
一番手がかかったのはレンガの模様。しましまの模様に時間かかった。細い紙を切って、塗って貼った

レンガの模様に手がかかった、という
レンガの模様に手がかかった、という

黒﨑さんはまず、自分で収集した資料を元に設計図を引く。

その後、紙や木材、プラスチックなどを組み合わせて、約1カ月後には完成するという。

――没頭すると時間を忘れますか?
黒﨑雄三さん:

夜中の2時、3時までやっている

黒﨑さんは、1977年に地元の親和銀行に入行し、バンカーとして約30年を過ごした。55歳で早期退職したあとは、小学生のころからの趣味である模型作りに精を出している。

黒﨑さんはこれまで、長崎に関する模型を20種類以上作っている。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産が、世界遺産に登録された翌年の2019年には、12の構成資産すべてを制作。長崎県に寄贈し、黒﨑さんの作品はいまも世界遺産のPRに役立てられている。

黒﨑さんの両親や祖父母は、長崎の被爆者だ。

幼い頃、毎晩のように、母の益子さんから被爆直後の様子を聞いたという。

黒﨑雄三さん:
周りにたくさん死体があって、炭のように真っ黒こげ。男性か女性かもわからない。悲惨と言っていた。地獄、地獄と。全く自分は経験がないから、本当かな?という気持ちもあったが、怖かった

“被爆者が生きた時代”を残す取り組み

この日、黒﨑さんを訪ねてきたのは、長崎大学の核兵器廃絶研究センター「RECNA(レクナ)」の林田光弘さんだ。

黒﨑さんは、RECNAが進める“被爆者が生きた時代”の写真を残す取り組みに賛同し、保管してきた家族の写真を提供した。
黒﨑さんなどから提供を受けた写真を元に、RECNAは被爆者の家族の物語を掘り起こし、戦争の恐ろしさを伝える教材を作る予定だ。

長崎大学核兵器廃絶研究センター「RECNA」・ 林田光弘 特任研究員:
原爆によって奪われたのが人や建物だけじゃなく、町、そして町が背負っていた文化もろとも壊されてしまったことは、後世の人に語り継がない限り、住んでいた人たちの郷土や文化が奪われたままになってしまう。写真を通じて人の思いや資料を残していければ

黒崎雄三さん:
楽しい幸せな家族の姿があって、1発の原爆で壊されて亡くなったり、ケガをしたりと悲しいことがあった。今後一切原爆を落とさない、核兵器を使わない、戦争をしないことに役立てれば

被爆2世として生まれ、模型を作る中で、黒﨑さんにはある思いが芽生えた。

黒﨑雄三さん:
自分は語り部とかできないし、模型製作で核兵器の恐ろしさ、平和の大切さを少しでも子どもに理解してもらいたい

いま、構想にあるのは、被爆前の長崎駅の駅舎だ。

黒崎雄三さん:
原爆で燃えてしまった昔の立派な建物を、写真はあるけど、3Dで残そうと思ってやっている。1発の原爆が長崎市を全部壊して多くの人が亡くなって。
悲しい思い出が二度とないように、戦争をしてはだめだと思ってもらいたい

黒﨑さんは今後 個展を開いて、より多くの人に模型を見てもらい、何気ない日々の大切さと平和の尊さをかみしめてほしいと話している。

(テレビ長崎)

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