2021年で、先の大戦が終わってから77年が経過した。戦争体験者が年々少なくなり、その証言を聞くのが難しくなる中、福井県に、氷点下40度にもなるシベリアに強制連行され、3年間の過酷な労働を生き延びた99歳の男性がいる。ロシア語の「ラボータ・ダワイ!!」。男性の耳には、今もこの言葉が焼き付いて離れないという。

異国の地で死を覚悟「どうやって殺されるのか」眠れぬ夜

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「寒い日は一日休みになった。気温が氷点下37度になった時」。75年以上前の体験を一つ一つ思い出し話すのは、福井市国見町に住む小林定二さん。大正12年生まれ、99歳だ。

80代で心筋梗塞や膀胱がんなどを患い、今は寝たり起きたりの生活が続いている。ただ、戦争体験を知ってほしいと、2時間の取材に応じた。

シベリア抑留を生き延びた小林定二さん(99):
人もいないし、食料もないし。戦争には勝てるわけないと思っていた

小林さんは1942年、20歳を前に、当時国民の義務だった徴兵検査を受けて合格。その後、日本領だった東南アジア諸島に配属され、飛行場の建設に従事した。ただ日本の戦況悪化に伴い、半年足らずで旧満州への移動を命じられる。

シベリア抑留を生き延びた小林定二さん(99):
満州では毎日殺す練習、兵隊っていうのは。行軍して山を登ったり、体を鍛えたりしていた

満州で待機していたところ、1945年8月15日、突如日本の敗戦を聞かされる。「捕虜になれば虐殺される」と教育されたため、小林さんは異国の地で、死を覚悟した。

「どうやって殺されるのかな。並べられて、その上を戦車が通るのかなとか。1人ずつ叩いて殺すのか。3日間一睡もせず、ただ空を眺めて…日本はあそこやと。今でも思い出すと…。」言葉をつまらせる小林さん。両目には涙がたまっていた。

ほっとしたのもつかの間…「逃げたりすると、叩かれたり殺されたりした」

その後、小林さんら日本兵は、北から侵攻してきた旧ソ連の捕虜になった。処刑はないと聞き安堵したのもつかの間、徒歩で北に向かうよう指示された。その距離は、100kmにも及んだ。

移動中、行き先は氷点下40度にもなる極寒の地シベリアだとわかった。後に「シベリア抑留」と呼ばれ、60万人ともいわれる日本人が長期間の過酷な労働を強いられた。

小林さんは、木の伐採や土を掘る作業に従事させられた。シベリアでの強制労働は、実に3年間にも及んだ。

シベリア抑留を生き延びた小林定二さん(99):
少々遅いと、「ダワイダワイ!!」と言われた。「早くしろ」と。ラボータは仕事という意味。「ラボータ、ダワイダワイ!!」謝れば何もされない。逃げたりすると、叩かれたり殺されたりした

食料も極めて少なく、10人に1人が死亡したとされる。追い詰められた日本兵の中には、規則を破るものも出始めた。

シベリア抑留を生き延びた小林定二さん(99):
パンを盗みに入ったらしい。そして逃げて、やられた(殺された)

本当に辛い体験、今は口を閉ざす

2時間にわたり悲惨な体験談を話し続けた。しかし長男の洋一さん(65)は「本当に辛い体験は、今は口に出さなくなった」とつぶやく。

小林さんの長男・洋一さん:
子どものときに聞いたのは、凍死した死体を、朝一番に凍った川の真ん中に置きに行っていたと。周辺に置いておくと、獣が食べたり腐ったりするから。春になると氷が溶けて川に流れていく。辛いから思い出したくないのかな

小林さんは1948年、シベリア抑留から解放され、再び故郷の地を踏んだ。今では孫が5人、ひ孫が6人、玄孫1人が生まれ、穏やかな日々を送っている。

敗戦から77年。2022年はロシア軍がウクライナに侵攻し、戦後70年以上にわたり積み上げてきた世界の平和秩序が崩れ去った。戦争がなくならないという厳しい現実が、私たち日本人にも突き付けられた。その今だからこそ、体験者として小林さんは戦争反対を訴える。

シベリア抑留を生き延びた小林定二さん(99):
ロシアは途中で挙げた手を下せなくなってしまったのか。戦争をやめることができればいいが。戦争はやらん方がいい

(福井テレビ)

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