8月11日の「山の日」で、2022年は木曜日が祝日となる。8月は学生・生徒・児童・園児は夏休み期間中なので直接的な恩恵は受けないが、働く人々にとって灼熱地獄といっていい日本の夏を一日でも多く休めるのは、とてもありがたいことではないだろうか。

この祝日は2014年に制定された。日本山岳会などの働きかけで超党派による「山の日制定議員連盟」の結成が制定の発端になった。議連は当初、お盆休みの連携も考えて8月12日を考えていたようだ。ところが、その日は日本航空123便が「御巣鷹山」に墜落した日(1985年)だったため、12日を「山の日」の祝日にするのは適切ではないという意見が出て、一日前倒ししたという経緯があったらしい。祝日を制定するのもなかなか大変である。

「信仰の対象」から「修行の場」へ

さて今回の書評は、山にちなんで『山岳信仰 日本文化の根底を探る』(鈴木正崇 著・中央公論新社)を取り上げようと思う。新書版だがなかなか充実した内容で、民俗信仰の概観図といった趣がある。序章のほか、出羽三山、大峰山、英彦山、富士山、立山、恐山、木曽御嶽山、石鎚山の山々の山岳信仰が説明されている。

序章では山岳信仰の全般的な説明がなされていて、この部分だけでもかなり読み応えがある。

山岳信仰は、自然を崇拝するアニミズムがその底流にある。なので、山岳信仰の中に日本の原初的な宗教の片鱗も見出すことができる。たとえば「山中他界観」がある。死者の霊魂が山中に集まるというものだ。この本によると、東北の恐山・月山、関東の相模大山、中部の白山・立山、近畿の高野山、伊勢の朝熊(あさま)岳、那智の妙法山などがそれにあたるらしい。山は天に近い。だからこそ、彼岸と現世の境界線になりうるのだろう。

室堂平から見た立山連峰(富山県・立山町)
室堂平から見た立山連峰(富山県・立山町)
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こういった古代人の死生観に外来の宗教である仏教が加わることによって、山岳信仰は一層の複雑さと深みを増すことになった。仏教の影響によって「山中他界」は仏菩薩の居地とされた。阿弥陀如来や観音菩薩がおわす極楽浄土や補陀落浄土とみなされたのである。

一方、飛鳥時代、奈良盆地の三輪山の大神(おおみわ)神社では、三輪山そのものが聖域とされた。そのため神社には拝殿はあるが本殿はなく、ある地点以上は禁足地とされた。山そのものが拝む対象なのである。この時代までは「山」は自然の猛威の象徴であり、祟りを人々に投げかける神であった。だが、奈良時代に入ると山岳信仰に対する考え方が変わり始めてくる。

「奈良時代には、山を里から遥拝するだけでなく、山に入って自然の霊力を身につけようとする修行者が現れた。聖(ひじり)、禅師(ぜんじ)、優婆塞(うばそく)などの半僧半俗の人びとで、私度僧(しどそう・正式な官許を得ていない僧)も含まれ、彼らは山中で神霊と交流して一体化するシャーマン(巫者・ふしゃ)でもあった」

山を神として、畏れ、崇拝し、奉る対象から、その霊力を「利用」しようとする考えが生まれたのである。これは何気ないようでいて、日本人の精神史にとって画期的な出来事ではないだろうか。山の神と一体化しようという発想は、恐れおののき奉ることに終始する態度から一歩踏み出している。

時代はさらに進んで平安時代に入ると…

「平安時代初期に最澄(767~822)は比叡山を開山して天台宗を、空海は高野山を開山して真言宗を開き、山林修行を取り込んだ」

山の持つ凛と張りつめた空気は修行にもってこいの「場」なのだろう、日本仏教界の二大巨頭の最澄と空海が「山」を修行の場として選んだのである。

ここで面白いのは、比叡山延暦寺の立ち位置だ。古代中国の陰陽五行説を出自とする「北東の鬼門」を、平安京の北東の比叡山に延暦寺を置くことによって邪気払いをしようとした。古代中国の宗教哲学の不吉を、インド北東部発祥の仏教で清めようとする発想は、おおらかな宗教観をもつ日本独特のものだろう。

比叡山延暦寺 大講堂(滋賀・大津市)
比叡山延暦寺 大講堂(滋賀・大津市)

富士山信仰

さて、個別の山々の信仰もそれぞれ個性がありいずれも面白いが、ここでは「富士山」を取り上げてみたい。さすが富士山ぐらいになると、信仰の古さも半端ではない。それは縄文時代中期にまで遡るらしい。

静岡・富士宮市の千居遺跡や山梨・都留市の牛石遺跡では富士山を拝むような配石遺構になっているという。たしかに、あのなめらかに山裾へ流れる稜線や、自然な左右対称の山姿は、縄文人の崇拝心を大いに刺激したことだろう。

静岡・芦ノ湖スカイラインから望む富士山
静岡・芦ノ湖スカイラインから望む富士山

さて、本地垂迹(ほんじすいじゃく)という仏教用語がある。神仏習合にかかわる言葉で、本地である仏が仮に日本の神に姿を変えて衆生救済を行うというものである。富士山の場合、本地は大日如来、垂迹は浅間大菩薩である。そして「富士山縁起」によれば、あの「かぐや姫」との関わりがあるのだという。

「日本最古の物語とされる『竹取物語』(平安時代前期)は、『竹取の翁(おきな)』が竹の中から見出して育てたかぐや姫が、貴公子の求婚にも帝(みかど)からの召し出しにも応じず、富士山に登り八月の満月の夜に『月の都』へ帰る。しかし、『神道集(しんとうしゅう)』『富士浅間大菩薩事』では、竹林から生まれた『赫野姫(かぐやひめ)』は国司の娘として育ち、成長して富士山の仙女と名乗り、神となって出現する。仙女の表現には神仙思想の残滓(ざんし)がある」

ということらしい。正直言って、富士山の出てくる「竹取物語」を初めて知った。しかしそれもあってかぐや姫は、中世では富士山の祭神になっていたという。

さて、宝永4年の最後の大噴火が落ち着いた江戸時代中期以降、富士山への登拝が江戸庶民のブームとなった。いろいろな富士講(富士山を崇拝する人々によって組織された団体)が江戸で生まれ、富士参詣を目指した。

旅行日程の一例をあげると、

「江戸から吉田は健脚で片道三日、御師(おし)の宿で一泊し、強力(ごうりき)を雇って七合目まで丸一日、翌日は夜中に出て山頂でご来光を拝んで、下山後は山麓で宿泊する。そして翌日に帰途につく。時間と費用がかかるので、講の成員がお金を集めて代表を選び、祈願を託して登拝させる『代参講』が発達した」

富士登拝は、かように大がかりなプロジェクトなのである。

富士講あるいは浅間(せんげん)講は、宗派によって各種の講があったが、小谷三志(こたにさんし)の作った講では、

「男女平等の精神に基づき、身禄百年忌にあたる天保三年(1832)旧暦九月に江戸深川の鎌倉屋十兵衛の娘『たつ』を連れて女人の初登拝を敢行した。江戸時代には女性の登拝は表口(村山・大宮)は中宮八幡、東口(須走)は中宮小室社、北口(吉田・船津)は二合目御室浅間神社(本宮)まで、御縁年の庚申年には北口の女人登拝は四合五勺の御座石(ございし)浅間神社までとされていたので、この禁制を打破したのである」

上に見る身禄(しんろく)は、富士講の開祖・角行(かくぎょう)の法脈を引き継ぐ人で、この人の思想は『一字不説之巻(いちじふせつのまき)』に「階層や身分を超えた平等思想を説く富士信仰の特徴が伝えられている」とされているので、小谷三志はその思想を実現化したのである。これ以降、女人解禁はなし崩し的に進み、明治5年に正式に解禁となった。

民俗的な山岳信仰は宗教としてみた場合、超絶的な権威や指導者がいないだけに、既存の宗教よりもはるかに柔軟性に富んでいたのである。

【執筆:赤井三尋(作家)】

『山岳信仰 日本文化の根底を探る』(鈴木正崇 著・中央公論新社)

赤井三尋
赤井三尋

本名・網昭弘 早稲田大学政治経済学部卒業後、ニッポン放送に入社。2003年『翳りゆく夏』で第49回江戸川乱歩賞受賞。2006年フジテレビジョン報道局へ転籍。
【著書】
『翳りゆく夏』( 講談社文庫)
『どこかの街の片隅で』( 単行本・講談社 改題して『花曇り』講談社文庫)
『2022年の影』(単行本・扶桑社 改題して『バベルの末裔』講談社文庫))
『月と詐欺師』( 単行本・講談社 講談社文庫【上・下】)
『ジャズと落語とワン公と 天才!トドロキ教授の事件簿』(単行本・講談社 改題して『面影はこの胸に』講談社文庫)
【テレビドラマ】
翳りゆく夏(2015年1月18日 ~(全5回) WOWOW「連続ドラマW」主演:渡部篤郎)