「ウチナーンチュ」とは沖縄県民だけでなく、沖縄にルーツを持つ人たちを指す沖縄の言葉だ。2022年10月には、第7回となる「世界のウチナーンチュ大会」が開催される。県系人の繋がりや沖縄のアイデンティティーを確かめるものだが、この大会が開かれるまでには、ある政治家の強い思いがあった。

「一度全員集合したいな」…元県知事を突き動かした移民への思い

これまで6回開催された世界のウチナーンチュ大会。沖縄を離れて生活しながらも、独自の文化やアイデンティティーを受け継いだ先人の功績を称え、“ウチナーンチュネットワーク”を継承するのが目的だ。2022年10月には第7回が開催される。

第6回大会には過去最多となるのべ約46万人が参加(2017年10月)
第6回大会には過去最多となるのべ約46万人が参加(2017年10月)
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この国際的な大規模イベントの開催に道筋を立てたのは、県知事として直接アメリカに赴き基地問題の解決を目指すなど、沖縄保守の重鎮だった西銘順治(にしめ・じゅんじ)さんだ。

元沖縄県知事 故・西銘順治さん:
ウチナーンチュはみんなチバトーンドー(頑張っている)。一度全員集合したいな

精力的に海外を周って沖縄出身者や県系人と交流を図り、県内の国際交流拠点の設置にも力を注いだ。西銘さんを突き動かしたものとは…。

移民の数が国内最多に…待ち受けた海外生活での困難

1899年の第一次ハワイ移民を皮切りに、沖縄からは多くの移民が送り出された。
戦後になると、移住していた家族を沖縄に呼び戻す一方で、南米向けを中心とした移民政策が進められ、海外への移民の数は国内最多となった。
移民の歴史に詳しい琉球大学の町田宗博 名誉教授は、背景をこう解説する。

沖縄から海外へ向かう移民の船(1950年代撮影)
沖縄から海外へ向かう移民の船(1950年代撮影)

琉球大学名誉教授・町田宗博さん:
南洋帰りの人たちも多く、そういう人たちが一気に沖縄に帰ってくる。琉球政府が人口問題をどうにかしないといけない

戦後、急激に増える沖縄の人口問題の解決策として、琉球政府が人々の海外移住を進めたという。移民の数は1950年代から60年代にかけてピークを迎え、その後は減少へと転じた。海外に移住した人たちには、多くの困難も待ち受けていたという。 

琉球大学名誉教授 町田宗博さん:
琉球政府の計画移民がたくさん送り出されたが、自然災害であるとか諸々の状況で、うまくいかないことがあった。
ボリビアでは、うるま病と呼ばれる原因不明の熱病で、たくさんの人が亡くなった。中には移民が「棄民」と呼ばれるような、失敗した事例もあったりする

そうした苦難を乗り越える支えとなったのが、県人どうしの繋がりだった。

琉球大学名誉教授 町田宗博さん:
ブラジルの場合には沖縄の人は県人じゃなくて「おきなわさん」、敬称というより差別用語として物産の「産」。「県」ではないことが、差別的な用語が使われる背景にあったのではないか。
復帰後から少し遅れての1975年ごろ、晴れて沖縄県人会というのが立ち上がった。沖縄の人たちの身分や、立場が不安定なものがある意味で落ち着いた

また、県人会館の設置も進み、ウチナーンチュコミュニティの強化にもつながった。

琉球大学名誉教授 町田宗博さん:
皆で集まる場所を確保しながら情報がやり取りされたり、歌三線があったり、踊りがあったり、沖縄の人が一つに結びつくパワーを作っている側面がある。或いは文化的な継承がそこに結びついている側面があった

政治活動にも力を発揮 ウチナーンチュネットワーク

そうした海外で暮らす県系人の活躍に関心を寄せたのが、県知事を3期務めた西銘順治さんだった。
自民党県連会長などを歴任した嘉数昇明(かかず・のりあき)さんは、海外のウチナーンチュに対する西銘さんの思いは自身の生い立ちにあったのだろうと話す。

自民党県連会長を歴任した 嘉数昇明さん:
知事自身がパラオだったり、(お父さんは)ウミンチュだったわけね。そういう海外移民で、
南米行ったり南洋行ったり、個人的な体験としてある。海外雄飛と言われているけれど、皆出ていくときは本当に貧乏で、移民の苦労を肌で感じておられたと思いますね

交流だけでなく、知事としての政治活動も、海外のウチナーンチュに支えられた。
1985年、西銘さんは基地問題の解決に向け訪米を決意したが、当時、県知事がアメリカ政府へ直接行動を起こすのは前例がなかった。

県議会議員として同行した嘉数さんは、次のように振り返る。

自民党県連会長を歴任した 嘉数昇明さん:
外務省はなかなか(面談調整を)やってくれない、沖縄の知事ごときがとは言葉に出して言わないけれど、そういうことがあったかもしれない

最大の目的は国防長官との面談だったが、調整は難航。突破口を開いたのはハワイの県人会だった。

ハワイ県人会の会長(当時)、東恩納氏。知事と米国防長官らとの面会に尽力した
ハワイ県人会の会長(当時)、東恩納氏。知事と米国防長官らとの面会に尽力した

自民党県連会長を歴任した 嘉数昇明さん:
ハワイの県人会の会長、東恩納(ひがおんな)さんという方がおられて、ハワイ州選出の上院議員のスパーク・マツナガさん、ダニエル・イノウエ上院議員とか、ワインバーガー国防長官に直接アポイトメントを取ってくれた。
ハワイにおいても県人社会はそれだけの力と評価を持っていた

当時の国防長官だけでなく、後に国務副長官を務め、知日派で知られるリチャード・アーミテージ氏と面談することにも成功した。

後に国務副長官となるアーミテージ氏(右)と面談する西銘知事(左)(1985年)
後に国務副長官となるアーミテージ氏(右)と面談する西銘知事(左)(1985年)

自民党県連会長を歴任した 嘉数昇明さん:
その時に普天間の返還というのも、初めて沖縄の知事が日本側から提案した。発端を開いたという事で、大変意義があったと思う

県系人のサポートを得て大きな成果を得た西銘さんは、沖縄への帰路でこう話した。

「いざ行かん 我らの家は五大州」

元沖縄県知事 故・西銘順治さん
ウチナーンチュはみんなチバトーンドー。一度全員集合したいな

既にウチナーンチュ大会の構想を練っていたのだろうと、嘉数さんは振り返る。

自民党県連会長を歴任した 嘉数昇明さん:
皆で何年に1回でもいいから、故郷沖縄で縁のある人たちが集まる機会を作れたらいいなという話になった

海外で暮らす県系人を追った報道が大きな反響を呼び、西銘さんも関心を寄せていたという。

自民党県連会長を歴任した 嘉数昇明さん:
(沖縄テレビ放送の元ブロードキャスター)前原(信一)さんが熱心に、各地の県人会を、アメリカだけじゃなくてずっと報道されたので。あれは大きなウチナーンチュ大会の機運を盛り上げるきっかけ、背景になったと思う

西銘さん肝入りの世界のウチナーンチュ大会が1990年に初めて開かれると、その後の県政にも引き継がれていったのだ。

琉球大学名誉教授 町田宗博さん:
沖縄出身者であることを覚醒させる。沖縄のつながりの文化、つながりという財産を継承していく契機になるイベントになる。世界における沖縄コミュニティを拡大させていく、大きくしていく、そして沖縄の平和に貢献していく一つの力かと思う

「いざ行かん、我らの家は五大州」と詠まれた沖縄の移民の歩み。その思いは、世界のウチナーンチュの中に息づいている。

(沖縄テレビ放送)

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