過激派組織「連合赤軍」が、長野県軽井沢町の保養所で人質を取って立てこもった「あさま山荘事件」から、半世紀が経つ。

激しい銃撃と、壁を打ち破る巨大な鉄球。そして次々と運ばれる負傷者の姿はテレビで中継され、総世帯視聴率は89.7%を記録。

10日間にも及んだ犯人と警察の激しい攻防戦は、日本中を震撼させた。

加藤倫教氏
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立てこもった5人のうちの1人、当時19歳で「少年A」と報道された加藤倫教氏は、50年経った今、あさま山荘事件を振り返って何を思うのか。

FNNのインタビュー取材に応じた加藤氏は、「私たちは自分勝手に『革命をやらなきゃいけない』と考えていました。情勢の判断も革命の大義も根本的に間違っていたと思っています」と語った。

なぜ、あさま山荘事件は起きたのか

今から50年前の1970年前後は、いわゆる“安保闘争”から多くの若者が反戦を掲げ、学生運動が激しさを増していた時代だった。

過激派組織「連合赤軍」は、その中でも武装闘争による革命を目指し、銀行強盗事件や銃砲店襲撃事件など、凶暴な犯行を繰り返しながら逃走。潜伏していた群馬県の山中で“軍事訓練”を行いながら、“総括”と称した集団リンチで12人のメンバーを殺害していた。

あさま山荘に立てこもった5人

あさま山荘事件が起きたのは1972年2月19日。

警察の大規模な捜索でメンバーが続々逮捕される中、その包囲を逃れた当時16歳から25歳の5人は、猟銃などを手に山を越えて長野県に入った。

「1軒の別荘の駐車場に車があった。その車を使って逃げようという話になって、運転席をのぞき込んだところ、キーが付いていないということで。キーを求めて、2人ぐらいがあさま山荘の中へ入っていきました」

当時保養所だったあさま山荘を見つけた5人は、山荘の管理人の妻を人質に取り、立てこもることになった。

当時19歳だった加藤氏は、5人の中で“下っ端”だったため、上の決断に逆らうことはできなかったという。

「5人で逃げ切って組織を立て直そうという方針だったのに、籠城してしまったら、もうおしまいという風に思いました。
最終的に逮捕されるか、銃撃戦をやった場合には死んで終わるか、その結果が初めから予想されるなと思いました。私としては納得がいかないという気持ちでしたね」

そんな思いとは裏腹に、上からは「銃による殲滅戦をやるから戦え」と言われた加藤氏。

5人は山荘に近づく警察に向かって容赦なく発砲した。

「武装闘争ということだけで一致していた」

当時19歳、未成年だった加藤氏は、なぜ連合赤軍の一員としてこの場にいたのか。

「政治的な活動に参加したのが高校2年の始まりでした。

高校2年の夏休みに兄が東京から帰ってきて、その時に革命左派の機関紙とかを見せられて。少し経った秋ごろに、組織を作る役目を持った人が名古屋に来て、組織を作るということで、革命左派の活動に参加し始めたのが高校3年の夏ごろです」

高校2年の頃から、いわゆる“安保闘争”の集会やデモに参加し、ベトナム戦争に反対する市民連合の集会にも参加していたという加藤氏。その活動の中で、連合赤軍の前身となる革命左派に関わっていくことになった。

当時襲われた銃砲店

「革命左派は、自分たちの軍隊を作るために武器を調達しなければいけないということで、襲いやすい交番から始めようと交番を襲って武器を奪って。
そうした小規模の襲撃を繰り返す中で、だんだん人員や武器を増やして、最終的にはいわばゲリラ戦から正規戦に持ち込んで、日本政府を倒すとということで武装闘争をやらなきゃいけないと。

赤軍派の方は、本当に平等な社会を作るために、政府を倒して社会主義革命を行って、革命政権をつくらなきゃいけない、というような状態だったんですね。

ただ、やるためには武装闘争が必要だと」

加藤氏が「武装闘争をやるということだけで一致していた」というように、“武装闘争”という共通の目標で革命左派と赤軍派は合流し、連合赤軍として凶悪な犯行に突き進むとなる。

突入と逮捕のとき、犯人が思ったこと

立てこもりから10日目の2月28日。

5人は警察の説得に応じず、こう着状態が続いていたが、ついにこの日、警察が強行突入を決行した。

加藤氏は、突入のときの状況について、「10日目は、それまでの9日間と違って、警察が命令口調で『出てこい』と呼びかけてきたので、『きょうは来るな』と思いました」と振り返る。

そして、午前10時47分、開始されたのはあさま山荘事件の代名詞ともいえる「鉄球作戦」だ。

テレビで繰り返し流れる、巨大な鉄球が山荘の壁を打ち破る映像を改めて見てもらうと、加藤氏は、「この辺に私がいたという感じです」と画面を指差した。

加藤氏がいたのは、山荘の玄関側の屋根裏で、まさに鉄球が打ち破った場所だ。

「もともと屋根裏の壁に穴を開けて、警察の様子を見たり発砲したりしていました。

クレーン車が出てきたときは呆気にとられましたが、鉄球があたった瞬間に振動が来るかというとそうでもなくて、ぐしゃっと壁が崩れるだけで。壁が壊れたところから、今度は放水あるいはガス弾を撃ち込んでくるので、最終的にはその場所にいられなくなりました」

壁が崩れたところにガス弾が撃ち込まれた

警察との攻防戦に恐怖は感じなかったのだろうか。

「怖いといえば怖いですが、『やらなきゃいけない』という気持ちの方が強かったです。自分が社会を変革するために命を落としたとしても、それは自分で決めたことで、覚悟の上のことですから。
緊張はしますが、怖いとは思わなかったですね。警察官に対して発砲するかどうかの決断をしなきゃいけないということに対して緊張するといいますか、撃つ場面が来たらどうするんだ、ということで緊張しました」

「最初玄関が壊されたんで、玄関から突入してくると思ってたんですけれども、実際は厨房の方から入ってきて、だんだん(身を潜めていた)ベッドルームに近づいてくるという状況だったわけです。

他の部屋なんかも全部ガスが充満していて、やってることはなんとなくわかるけれども、具体的に何を使って壁を壊そうとしているかとか、何人いるかとか全然見えない状況でした。
自分の目の前に警察官が来てやっと『ああ警察官が来たんだ』とわかるぐらいで

加藤氏らが逮捕されたあさま山荘3階の寝室

強行突入から8時間あまりが過ぎた午後6時15分、5人は逮捕された。人質の女性も無事救出。

一方、警察官2人と民間人1人の、あわせて3人が犠牲になった。

加藤氏は、逮捕されたときの状況についてこう語る。

逮捕され連行される当時の加藤氏

「ほかのメンバーは逮捕の瞬間まで発砲して抵抗していましたが、私は終わるべくして終わったと思っていたので、抵抗する気持ちはなかったです。ただ、亡くなった同志たちへの思いもあって、『武力闘争による革命は続けなきゃいけない』と思っていました」

事件から50年…「革命」とは何だったのか

加藤氏は、懲役13年の実刑判決を受けて服役し、出所後は農業を営んでいる。

あさま山荘事件から50年が経ち、69歳になった今、何を思うのか。

「国民のために社会を良くするには、武装闘争が必要だと考えていました。ただ裁判の中で、私たちがやろうとしていたことは、大義に反することだった。人質を取ったということは、国民を敵に回したということなので、私たちに革命を主張する権利も大義もありませんでした」

彼らが“革命”を目指す中でも国際情勢は刻々と変化を続け、「ベトナム戦争を支える日本の政府を倒さなきゃいけないという状況が、終わりつつあった情勢を理解していなかった」と振り返る。

「国民の大部分が『もうこれ以上今の社会体制や経済体制では生きていけない』、そういうときに行われるのが革命だと思うんですが、私たちは自分勝手に『革命をやらなきゃいけない』と考えていました。情勢の判断も革命の大義も根本的に間違っていたと思っています」

あさま山荘は持ち主を変え、当時と同じ場所に残っている

最後に、加藤氏が今回インタビュー取材に応じた理由を聞いてみると、こう答えた。

「あさま山荘事件のことを思い出すと胸が痛くなります。でも、私たちは間違ったことをやった。それを明らかにしなきゃいけないという思いはあります。つらいことではありますが、話すことが社会に対する自分の責任の一部だと思っています」

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