名護市からペルーに渡った両親

80年前の1941年12月8日、旧日本軍が真珠湾を攻撃し太平洋戦争に突入した。この戦争は1945年、沖縄戦を経て日本の敗戦で幕を閉じることになる。

この間、海外に移り住んだウチナーンチュたちも過酷な運命を強いられていた。あまり触れられてこなかった沖縄県系人の戦争体験を、南米ペルーの移民2世の女性が語ってくれた。

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那覇市に住む神谷照子さん。照子さんには波乱万丈の人生があった。

神谷照子さん:
島袋テレサです。日本語では照子です

照子さんの結婚前の名前は「島袋テレサ」。ペルーで生まれた日系2世だ。

照子さんの両親は名護市出身。1918年に契約移民としてペルーに渡り、サトウキビの農園で一生懸命働き、雑貨店を持った。

そんな両親のもと、照子さんは1926年に生まれた。1940年前後のペルーでは経済的に安定する日本人に対して反日感情が強まっていた。

強制連行で家族は分断 収容所で合流も…

1941年12月8日、旧日本軍がハワイ・真珠湾を攻撃。太平洋戦争が始まり、照子さんと家族をさらなる不幸が襲った。「日系人の強制連行」だ。

神谷照子さん:
トラックの中に父を乗せて。向こうも涙流していて、父が。私は「パパー、パパー」って泣いたんです。ペルーからアメリカへ連れて行かれたんです

家族はバラバラになり、照子さんはペルーに1人残された。アメリカの同盟国・ペルーは日本人、ドイツ人、イタリア人を「敵性外国人」として拘束し、アメリカに送った。

アメリカでは、彼らを不法入国者としてクリスタルシティ収容所で収監。無実の人たちが犯罪者へと仕立て上げられたのだ。

1942年には照子さんも家族と合流するため収容所に入った。そこには南米から送られた2300人の日系人が暮らしていた。

クリスタルシティは当時、アメリカに何カ所もあった日系人らの収容所の中では一番、環境が整っていたが、そこはフェンスの中。自由のない24時間監視下の暮らしだった。

1945年、終戦。ペルー政府が日系人の受け入れを拒否したため、照子さんたち収容されていた900人以上が日本に送還された。しかし、照子さんの父は沖縄に戻ることなく亡くなった。

そして1999年、南米からの日系人強制収容に対し、当時のクリントン大統領が謝罪と戦後補償に署名した。アメリカ政府は戦争の過ちを謝罪したのだ。

今の幸せを大切に、体験を語り継ぐ

太平洋戦争の始まりから80年。照子さんは今、子供たちと幸せな毎日を送っている。

照子さんの貴重な経験を記録しておこうと、家族や友人たちが2年かけて1冊の本にまとめた。

照子さんの長男・神谷嘉辰さん
私が知らないこと、すごくいろんな母のことがわかった。インパクトがものすごく強いですね

照子さんの本の制作者・大城朋子さん:
平和がどんなに大事なことか。戦争がいかに1つの家族に大きな影響を与えるのか、知って欲しいと。そういう思いがすごくありました

「移民」の歴史も沖縄にとって重要なものだと、照子さんの記憶が伝えている。

(沖縄テレビ)

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