愛知県豊橋市出身の陸上ランナー・鈴木亜由子さん。日本郵政グループ女子陸上部に所属し、2018年8月の北海道マラソンで、初マラソンにして初優勝した選手だ。
現在は、東京五輪マラソン代表に内定している。
中学生の頃から陸上トラック種目で全国大会を制していた鈴木さんだが、当時の夢は「体育の先生になること」。そんな彼女を本格的に陸上に目覚めさせたのは、憧れの選手との出会い。当時、陸上強豪校の兵庫・須磨学園高校で活躍していた3歳年上の小林祐梨子さんだ。
それから、細い糸で確かにつながった2人の陸上ランナーは、互いの道で夢を紡いでいく。2人の成長と心の交流を追った14年間の記録。
前編では、2人の出会いと、長きにわたった鈴木さんの低迷時代を追う。
鈴木亜由子と小林祐梨子、2人の陸上ランナーの出会い
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2005年8月、岐阜県で行われていた全日本中学陸上選手権で、一人の少女が大会史上初の快挙を成し遂げた。
13歳の鈴木亜由子さんが、1人で800mと1500mの2種目を制したのだ。当時、愛知県豊橋市にある豊城中学校に通う中学2年生だった。
ただこの頃鈴木さんは、まだ部活動のバスケットボールと二足のわらじ。
記者に陸上とバスケットボールのどちらが好きか問われると、迷わず前者を選択した。
「バスケットボールは、みんなで喜びを分かち合える点がいいです。将来は、スポーツが好きなので、体育の先生とか」
あどけなく笑う中学生の頃、鈴木さんは自身がオリンピックを目指すなど想像もしていなかっただろう。
しかし、一人の天才ランナーとの出会いが、その後の人生を大きく変えていった。
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「好きな選手ですか?小林祐梨子選手が格好いいです」
そう話していた鈴木さん。
小林祐梨子さんは、当時兵庫県神戸市の須磨学園高校に在籍していた16歳。2006年に1500mで日本新記録を打ち立てたり、アジア大会の1500mで銀メダルを獲得したりと、スーパー高校生と呼ばれた陸上界のスター選手だった。
陸上雑誌で大きく特集されるなどと、雲の上の存在だった小林さん。
鈴木さんは初めて出場した全国都道府県対抗駅伝で、そんな小林さんに巡り会うチャンスに恵まれた。開会式の会場でわずかな時間だったが、直接会話することができたのだ。
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初対面を果たし、「感動です」と照れ笑いする鈴木さん。
一方の小林さんは「彼女に元気をもらうし、明日も頑張ろうかなって思えます」とにっこり笑って、しっかりとした口調でアドバイスする。
「まずは、故障しないこと。中学校の間はいろいろな経験ができるから、その一つひとつの経験を大事にしてもらえたら。大きい大会でも小さい大会でもいいから目標を持って。まだまだ陸上人生は長いから、中学校生活を楽しんで!」(小林さん)
憧れのランナーから直接アドバイスをもらうという貴重な経験。この出会いが、鈴木さんを本格的に陸上への道に誘うことになった。
「小林さんの記録を抜きたい」
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2006年12月。中学3年生になった鈴木さんは、進路に悩んでいた。
中学時代に全国チャンピオンに輝いた鈴木さんのもとには、陸上強豪校からたくさんのスカウトが舞い込んだ。憧れの小林さんも通った兵庫県の須磨学園からの誘いには、心が踊った。
しかし鈴木さんは、進路で小林さんの後を追うことはやめた。他の方法で小林さんに近づこうと決めたのだ。
それは記録。憧れは出会いを経て、いつしか目標へと変わっていた。
「小林さんの記録を抜きたいです」
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2007年4月、時習館高校1年生になった鈴木さんに、再び将来の夢を聞いてみた。
「体育の先生か…陸上の選手に」
将来は陸上選手。初めてその言葉を口にしたこの年、鈴木さんは入学した高校の陸上部に入部。本格的に走ることにのめり込んだ。
今まで以上のスピードを求め、中学時代はほとんど履いたことがなかったスパイクを着用。少しでも軽くしたいと、シューズの中敷きも取るほどだった。
そして、1年生ながら出場した大会で、次から次へと記録を塗り替えていく。
鈴木さんは、走りの中に過去の自分を超える喜びを見出したのだ。
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だが、いいときは長くは続かなかった。同じ年の6月、インターハイ予選の東海大会1500m決勝で、鈴木さんは右足を痛めてしまう。
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中学時代には経験しなかった、本格的な怪我。
レントゲンでは見つけにくい亀裂が足の甲に入っていたことに、このときはまだ気が付いていなかった。
初めての怪我、初めての手紙
なかなか完治しない怪我。学校から帰宅するとすぐ、近所の公園を何周も自転車で走り、気を紛らわすこともあった。
ある日、自転車で向かった先は文具店。
大阪で開催される日本陸上選手権へ観戦に行くことになり、慌てて便せんを買いに行ったのだ。鈴木さんは、実業団の選手として出場する小林さんに、手紙を渡そうとしていた。
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日本陸上選手権当日。
鈴木さんの目の前には、テレビや雑誌でしか見たことのないトップアスリートたちの姿があった。鈴木さんの手には、小林さんへの手紙が。
「今までほとんど怪我をしたことがなかったので、練習ができないと不安になりました。いつか、小林さんと一緒に走りたいです」
文章の最後には、自分のメールアドレスも添えた。
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小林さんが出場したのは、1500m。
その決勝戦に挑むトラックでの小林さんの走りをスタンド席で目に焼き付けた鈴木さん。帰りのタクシーでの口調から、その昂ぶった気持ちが伝わってきた。
「決勝戦はすごくドキドキして、ここで走りたいなってな思いました」
2007年8月。日本陸上選手権の高揚感が影響したのか、痛めた足が完治しないまま、鈴木さんは1カ月後のインターハイに強行出場した。
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しかしなんとか決勝には進んだものの、結果は惨敗。
中学の頃は指定席だった表彰台が、はるか遠い結果に終わった。
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インターハイの後、落ち込んでいた鈴木さんを元気づけたのが一通のメールだ。小林さんから、手紙への返信が届いたのだ。
鈴木さんが照れくさそうに読み上げてくれた。
「小林祐梨子です。お手紙もらってから約1カ月が経つね。お手紙、本当にありがとう。すごく勇気付けられました。足の調子はどう?無理せず、落ち着いてね。鈴木さんからもらった手紙は私の宝物です。本当にありがとう。お互い頑張ろうね。お疲れ様でした」
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尊敬するランナーからへの返信は、時間をかけて書いては消し、送信しようとしてはやめ…。結果、こんな文章になった。
「お返事ありがとうございました。もっと練習して強くなりたいです。これからも小林さんを目標に頑張りたいと思います」
足の怪我と2度の手術。満足した結果を出せないまま大学進学へ
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2007年12月。
鈴木さんは、スポーツ選手の怪我やリハビリを専門としている愛知県の病院で精密検査を受けた。
結果は、右足甲にある舟状骨の疲労骨折。痛みの原因を突き止めることはできたものの、ボルトで固定し骨の隙間を塞ぐ手術が必要だった。
2008年の元旦、松葉杖をついていった神社で、鈴木さんが書いた絵馬には「復活!」の文字があった。
リハビリと練習を重ね、4月には進級。
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一方の小林さんは、夏に開催された北京オリンピックで5000mに出場。予選で敗れたものの、その表情からは夢の舞台に立つ幸せがうかがえた。
しかし、鈴木さんはなかなか調子を取り戻せずにいた。
手術で埋めたチタンのボルトが折れてしまい、2008年12月に2度目の手術。
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2010年春、鈴木さんは名古屋大学へ進学した。高校時代は陸上部にこそ入ったものの、
中学時代のような結果を残せずじまい。鈴木さんは、いまだ自信を取り戻せないままだった。
――将来の夢は?
ん~、まだ答えられないです。
――尊敬するランナーは?
特に…。
――小林さんとの連絡は?
……取ってないですね、全然。
6年ぶりの再会、そして初めての勝負と惨敗
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2年後。忘れかけていた存在と再会する機会が、鈴木さんに訪れる。
2012年5月。静岡で行われた長距離の記録会で、試合前のサブグラウンドにいる鈴木さんに誰かが歩み寄った。同じく出場者としてやってきた小林さんだ。
6年ぶりの再会だった。
いつか一緒に走りたい。中学時代にそう願った憧れのランナーと、同じグラウンドに立つ日がやってきた。
距離は5000m。相手はすでにオリンピックランナーで、自分は復活を目指す一大学生。
その日、鈴木さんは積極的に前に出た。今、自分はどこまで粘ることができるのか――。
離されてからも。小林さんの背中を懸命に追った。
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その結果、優勝は小林さんで、鈴木さんは10位。差は歴然だった。
レースが終わると、小林さんに多くの記者がマイクを向ける。
一方の鈴木さんは一人、茫然自失の表情で立ちすくんでいた。
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結果は散々だった。しかし、この時の再会は鈴木さんの眠っていた闘志を呼び起こし、再び火をつけた。
日の暮れたグラウンドで、鈴木さんはきっぱりと言い切った。
「小林さんが、ただの憧れの人じゃなく、ライバルという存在になってきたかな。今日もちゃんと走れなかったんで、まだまだですけど…。本当に勝ちたいと思っています」
小林さんとの再会を大きな転機として、鈴木さんは徐々に結果を出し始めた。
そして2013年7月、大学4年生で日本代表として出場した夏季ユニバーシアードの10,000mで優勝。学生のみの大会とはいえ、鈴木さんはジャパンのユニフォームに袖を通し、金メダルを獲得したのだ。
その2カ月後、2020年に行われるオリンピックの東京での開催が正式に決定。
鈴木さんの心にも、新たな目標が浮かび上がってきた。
後編では、鈴木さんが陸上トラック選手としてではなく、マラソン選手としてオリンピックを目指すようになるまでを追う。