沖縄県民なら甲子園の応援ソングとして誰もが知っている、喜納昌吉さんが作曲した「ハイサイおじさん」
曲の誕生には、知られざるある思いが込められていた。

(Q.この曲の印象は?)
20代 那覇市:

沖縄のお土産屋さんとか、あと居酒屋とか

ログアウト
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70代:
甲子園の沖縄の打者の時、ランナーがいて、1・3塁くらいな。ちょっと負けてる時に、1、2点差くらい。その時にこれ流せば打つんだ

ハイサイおじさん/喜納昌吉&チャンプルーズ(1969年)
作詞・作曲 喜納昌吉

アップテンポなメロディと、おじさんと子どもが掛け合いをする歌詞が特徴。
高校野球の応援歌、志村けんの『変なおじさん』の元ネタとしても知られる。

BEGIN 比嘉栄昇さん:
最高峰の方々、細野晴臣さんとか、はっぴいえんどからYMOが『これはすごい音楽だ』と。
民謡とロックを融合させようと、時を経てどんどん大きな花を咲かせていくっていうのは、奇跡の歌だと思いますね

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「辛いことがあっても突き抜けた明るさ」のおじさんがきっかけに

多くの人々に愛され、50年以上も歌い継がれてきた「ハイサイおじさん」、
どのように誕生したのか

喜納昌吉さん:
僕の父は、民謡をステージに最初に上げた人。練習場にはあらゆる巨匠が来ているんだよね。嘉手苅林昌から登川誠仁からね。ずっとそれを片隅に座ってみていた。だからある意味では、どっぷり音楽のシャワーを浴びていた

一方で、喜納さんは幼い頃に父から音楽を教えられたことはなかったと言う
音楽の道に進むきっかけとなったのは、中学時代のとある出来事だった。

喜納昌吉さん:
僕の父は結婚式とかお祝いに行くと、一合瓶をもらってきていた。隣のおじさんはアルコールが
好きだからもらいに来るわけね。でももらいに来ても毎日はもらえないさね、いくらなんでも。そうすると僕の父母がいない間、僕を狙ってくるわけよね

少年時代の喜納昌吉さん
少年時代の喜納昌吉さん

1960年ごろ、喜納さんの近所に住んでいたおじさんは、沖縄戦とその後の不安定なアメリカ統治下での生活に精神を病み、酒におぼれ、周囲からは避けられていた。
どれだけ辛いことがあっても、毎日陽気に酒をもらいに来るおじさんの突き抜けた明るさに、喜納さんはインスピレーションを受けた。

喜納昌吉さん:
ある時期にね、おじさんの歌を作ってあげようかと言ったとたんに、作品が生まれてくるんだよね。一瞬だよ一瞬。楽器なんて使わないですよ。すぐ出てしまった。だから作ったっていう感覚はない、生まれてきた

県内で30万枚の大ヒット!大物プロデューサーの目にも留まり…

デビュー当時の喜納昌吉さん
デビュー当時の喜納昌吉さん

1969年、喜納さんが大学生の頃に父・昌永さんのアルバムに「ハイサイおじさん」が初めて収録されると、県内でたちまち人気となり、1972年にはシングル盤を発売。県内で30万枚を売り上げる大ヒットを記録した。
本土の音楽関係者の間でも話題となり、やがてある大物プロデューサーの目にも留まることとなった。

音楽プロデューサー 三浦光紀さん:
以前にボブ・マーリーのライブも聞いてたんですね、喜納さんのライブはそれに匹敵するぐらいに革新的で衝撃だった

はっぴいえんどをはじめ、松田聖子や矢野顕子など数々の国民的アーティストを手掛けた音楽プロデューサー三浦光紀さん。
本土復帰直後に沖縄を訪れた際、ライブハウスで聞いたハイサイおじさんに衝撃を受け、喜納さんにプロデュースさせて欲しいと申し入れた。

音楽プロデューサー 三浦光紀さん:
そのまま世に出してしまうと、下手したらただの革新的な民謡とか、革新的なワールドミュージックっていう形で捉えられるので、喜納さんのプリミティブ(原始的)でソウルフルな歌を世界に出していくには、世界のトップクラスの技術とか感性を持ったミュージシャンを使って、喜納さんの歌を引き立たせるというか

最高のミュージシャンを揃えてプロデュース…沖縄音楽が全国に響いた

当時の最新の機材と最高峰のミュージシャンを揃え、プロデュースに臨んだ三浦さん。
レコーディングでは、曲の持つエネルギーを最大限に引き立たせるため、スタジオではなくライブパフォーマンスをそのまま録音した。
こうして出来上がったファーストアルバムを引っさげ、喜納昌吉&チャンプルーズは1977年にメジャーデビュー。
本土復帰直後であまり認知されていなかった沖縄の音楽を全国に響かせた。

喜納昌吉さん:
僕が1歩歩くと大阪の人は1歩半歩く、東京は2歩歩く。どうも歩くスピードが違うわけね。沖縄は足が遅いから、速い方に席巻されている感じがあるわけね。そういうものを考えたときに、僕は東京のスピードより、もっとスピードのあるものをやらないと抜けないと思った。
コザ暴動のあとにコンサートしているから、あのテンション。暴動が起きたときに、僕らは暴動の真ん中に入っていって周りを眺めて、そしたら自分の仲間たちもみんな暴れてね。
日米が持ってきたリズムに反抗する沖縄のリズム、これを運ぶためのリズムを作った

多くの人に親しまれている「ハイサイおじさん」には、悲しみや差別に負けないよう強く生きようとしたウチナーンチュの心が込められていた。

(沖縄テレビ)

沖縄テレビ
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