1945年8月9日。長崎に1発の原子爆弾が投下された。
あれから76年。長崎市の平和公園では平和祈念式典が営まれた。

平和祈念像 長崎・平和公園
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16歳で日赤救護員に…行方がわからない父親を探し

被爆者代表として平和への誓いを読み上げたのは、長崎市の被爆者・岡信子さん。
現在、92歳。被爆者代表として過去最高齢だ。
岡さんには、どうしても伝えたいことがある。

岡信子さん:
一番訴えたいのは、核兵器廃絶。やっぱり被爆して救護をしていれば平和が欲しい。平和は核をなくすことだと思う

今から76年前、当時16歳だった岡さんは、看護師を目指し、大阪の日本赤十字看護専門学校に通っていた。

8月9日は、現在の長崎市住吉町にあった自宅に帰省していたところで原爆にあった。

1945年8月9日 原子爆弾が投下される

自らもけがをしながら、1人の看護師として救護活動にあたった。

岡信子さん:
看護師が足りないために、私たち学生も駆り出された。大阪で学んだ期間はわずか5カ月。
でも腕に十字の腕章をつけた以上は、16歳ではない、日赤救護員です。(負傷者の)背中にはいっぱいのウジです。ウジは肉に食い込んでとても痛い。私は薬というのを見たことがありません

「まるで地獄…」 被爆体験を語る理由

救護活動と平行して、負傷した母親の世話。そして行方がわからなくなっていた父親を探し回る日々。
父親とは7日後に無事に再会できたが、その頃に見た光景は「まるで地獄だった」という。

岡信子さん:
はっきりと覚えています。角材を積み重ねたのがどんどん燃えて、そこに遺体を放り投げたり、見るに耐えなかった。当時のことが目の前にはっきりと浮かぶので、涙が出たり…

つらい記憶を心の奥にしまい込み、長年 被爆体験を語ることを避けていた岡さん。

被爆の実相を次の世代に伝える活動を始めたのは、90歳を超えてからだった。
「原爆の苦しみから立ち上がった人たちのおかげで今の平和がある」…それを、若い人にも知って欲しいと思ったからだ。

被爆の体験を若い人に

岡信子さん:
高齢になったけれど、つらい思いをするけれど、今のうちに今まで話さなかった分を話そうって。原爆がどういうものか、戦争がどういうものか、それ(を伝えるの)が、生き残った者の務めだから。私の平和への誓いを1人でもわかってほしい

世界に向けて訴えた「平和への誓い」

平和祈念式典

平 和 へ の 誓 い

ふるさと長崎で93回目の夏を迎えました。大好きだった長崎の夏が76年前から変わってしまいました。戦時下は貧しいながらも楽しい生活がありました。しかし、原爆はそれさえも奪い去ってしまったのです。

当時、16歳の私は、大阪第一陸軍病院大阪日本赤十字看護専門学校の学生で、大阪大空襲で病院が爆撃されたため、8月に長崎に帰郷していました。長崎では、日本赤十字社の看護婦が内外地の陸・海軍病院へ派遣され、私たち看護学生は自宅待機中でした。8月9日、私は現在の住吉町の自宅で被爆して、爆風により左半身に怪我を負いました。

被爆3日後、長崎県日赤支部より「キュウゴシットウセヨ」との電報があり、新興善救護所へ動員されました。看護学生である私は、衛生兵や先輩看護婦の見様見真似で救護に当たりました。三階建ての救護所には次々と被爆者が運ばれて、二階三階はすぐにいっぱいとなりました。亡くなる人も多く、戸板に乗せ女性2人で運動場まで運び出し、大きなトラックの荷台に角材を積み重ねるように遺体を投げ入れていました。解剖室へ運ばれる遺体もあり、胸から腹にわたりウジだらけになっている遺体を前に思わず逃げだそうとしました。その時、「それでも救護員か!」という衛生兵の声で我に返り頑張りました。

不眠不休で救護に当たりながら、行方のわからない父のことが心配になり、私自身も脚の傷にウジがわき、キリで刺すように痛む中、早朝から人馬の亡がらや、瓦礫で道なき道を踏み越え歩き、辺りが暗くなるまで各救護所を捜しては新興善救護所へ戻ったりの繰り返しでした。一週間後、大怪我をした父を時津国民学校救護所でやっと捜すことができました。「お父さん生きていた!私、頑張って捜したよ!」と泣いて抱き付きました。

父を捜す途中、両手でお腹から飛び出した内臓を抱え呆然と立っている男性、片脚で黒焦げのまま壁に寄りかかっている人、首が千切れた乳飲み子に最後にお乳を飲ませようとする若い母親を見ました。道ノ尾救護所では、小さい弟を負ぶった男の子が「汽車の切符を買って下さい」と声を掛けてきました。「どこへ行くの?」と聞くと、お父さんは亡くなり、「お母さんを捜しに諫早か大村まで行きたい」と、私より幼い兄弟がどこにいるか分からない母親を捜しているのです。救護しながら、あの幼い兄弟を想い、胸が詰まりました。

今年1月に、被爆者の悲願であった核兵器禁止条約が発効しました。核兵器廃絶への一人一人の小さな声が世界中の大きな声となり、若い世代の人たちがそれを受け継いでくれたからです。

今、私は大学から依頼を受けて「語り継ぐ被爆体験」の講演を行っています。
私たち被爆者は命ある限り語り継ぎ、核兵器廃絶と平和を訴え続けていくことを誓います。

2021年(令和3年)8月9日
被爆者代表  岡 信子

伝えたいナガサキ ~被爆76年 被爆者とともに~

(テレビ長崎)

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