22日のプロ野球ドラフト会議で、千葉ロッテマリーンズから1位指名を受けた関西大学の米沢友翔投手。石川県珠洲市出身の左腕は、今年6月の全日本大学野球選手権で最速149キロの直球を武器に関大を54年ぶりの日本一へ導き、最高殊勲選手(MVP)に輝いた。能登半島地震での被災、1年半に及ぶ故障を乗り越えた左腕に、指名前に語っていた故郷への思いを聞いた。
「ドラフト1位で行きたい」珠洲出身・米沢友翔投手

今年6月に開かれた全日本大学野球選手権の決勝で、新たなスターが誕生した。関西大学4年の米沢友翔投手だ。最速149キロの伸びのあるストレートを武器に、チームを54年ぶりの日本一へと導いた。米沢投手は自身の強みについて「わかっていても打たれない真っすぐと言いますか、真っすぐで押していくところが自分の強みかなと思っています」と語る。

その言葉通り、大舞台で躍動した。4試合に登板し3勝を挙げる圧巻の投球で、大会の最高殊勲選手に選出された。優勝の瞬間を「連戦を勝ち上がった分、優勝の瞬間っていうのは最高の瞬間でしたね」と振り返る。チームを率いる小田洋一監督も「冷静さと思い切りの良さですね。ピンチになればなるほどアドレナリンが出て相手をねじ伏せる。そういう力を彼は持っています」と、その精神的な強さを高く評価している。
故郷・珠洲で野球と出会い強豪校へ

米沢投手が野球を始めたのは、故郷・珠洲市での小学2年生の時。上級生に誘われて地元の少年野球チームに入団した。しかし、当初から才能を発揮していたわけではなかったという。「飛んでくるボールを全部エラーしたり、とれなかったりしていました、最初は」と、当時を笑って振り返る。それでも「野球が好きだったのでやめようとは思わなかったです」と語るように、純粋な探求心が彼を支えた。

地元の緑丘中学校では県大会にも出場。高校進学にあたり、ふるさと珠洲を離れ、県内屈指の強豪・金沢高校の門を叩く決断をする。レベルの違いは歴然だった。「レベルがすごく高くて『自分がこんなところでついていけるのかな』っていう風に思ったのは印象に残っています」と、当時の心境を明かす。それでも「『負けたくないな』っていう気持ちではいました」と、持ち前の負けん気で食らいついた。一般入試から這い上がった米沢投手は1年生の秋から試合に出始め、2年生の夏には県の決勝で準優勝を果たすまでに成長した。「厳しい中で野球をやらせてもらいましたし、成長できたと思います。次の大学野球で頑張ろうって気持ちになりました」と、高校3年間が大きな糧になったことを語った。

そして選んだ進路は、関西屈指の強豪・関西大学。部員約200人という大所帯の中で、人生を変える出会いがあったと米沢投手は言う。その相手は、2学年先輩の金丸夢斗投手だった。「2個上に金丸さんがいたっていうのは大きかったので、そういう面では関西大学を選んで良かったなって思います」と感謝を口にする。
金丸投手といえば、おととしのドラフト会議で4球団から1位指名を受け、中日ドラゴンズに入団。最速155キロのストレートと多彩な変化球を武器に1年目から主力として活躍し、今年のWBCには侍ジャパンの一員として出場するなど、今や球界屈指のサウスポーとして注目を集める存在だ。同じ左腕ということもあり、共に練習する機会が多かったという米沢投手は、金丸投手から技術以上のものを学んだ。「野球の技術ももちろん素晴らしいんですけど、練習に取り組む姿勢というか、個人練習がメインの大学野球の中で考えて練習に取り組んでいるというか。自分と向き合うことの大切さを金丸さんから教えていただきましたし、金丸さんの存在っていうのはすごく大きかったですね」。この偉大な先輩の背中が、米沢投手を新たなステージへと引き上げた。
故郷を襲った大地震と終わらないケガ

先輩からの学びを胸に、1年生の秋から公式戦に出場するなど順調なスタートを切った米沢投手。しかし、その冬の帰省中に悪夢が襲う。能登半島地震だ。「震度5弱(の地震)が来て『地震がきょうはいっぱい来るな』って話を両親としていたら、でっかい地震が来ました」。米沢投手の実家がある珠洲市は最大震度6強を記録。家族は無事だったものの、自身も3日間の避難生活を送った。

「もう学校とかも考えられなくて、地元がものすごいことになったので本当に(大阪に)帰りたくなかった」。両親に「珠洲に残る」と伝えたが、返ってきたのは「こっちは任せろ。大阪で野球を頑張れ」という言葉だった。「そこはもう頑張るしかないと思って大阪に行くことを決めました」と、覚悟を固めてチームに合流した。小田監督は当時の米沢投手の様子を「集合から1週間くらい遅れて大阪の方に帰ってきたのですが、その時は体もかなり痩せていて、郷土愛と言うんですかね。本当に地元のことをすごく心配していました」と明かす。

故郷への思いを背負って迎えた2年春、再び試練が立ちはだかる。度重なるケガだ。「大学2年生のときは肩がずっと痛くて投げられなかったり、大学3年生の時は肘が痛くて投げられなかったりしました」。ケガが相次ぎ、1年半にわたって試合に出られない日々が続いた。「挫折というか、野球をやめたくなってきた時もありました」と、当時の苦しい胸の内を吐露した。
原動力は「珠洲の皆さんを元気に」

先が見えない暗闇の中、それでも米沢投手が野球を続けられた理由。それは、故郷への強い思いだった。「自分が活躍して珠洲の皆さんに元気を届けられたら一番かなっていうのを思っていました。そこは頑張れる一つの要因になりました」。苦しい時こそ、被災した故郷の人々の顔が脳裏に浮かんだ。

どうしても妥協しそうになる気持ちを「もう一つ踏ん張って自分に発破をかけて最後までやり切ることが大事だと思っていた」と奮い立たせた。偉大な先輩から学んだ「自分と向き合う」姿勢が、この苦境で彼を支えた。「やり切れたことが今の成績というか結果に繋がっているのかなと思います」。

故郷・珠洲への恩返しの思いと、偉大な先輩の教えを胸に、プロ注目のピッチャーへと進化を遂げた米沢投手。10月22日のプロ野球ドラフト会議での上位指名を目指し、腕を振り続ける。「ドラフト1位で行きたいっていう思いがあるので、指名していただける姿っていうのを地元の皆さんに見ていただけるようにしたい。秋のリーグ戦でいい結果を残して、ドラフトで指名される瞬間を見てほしいなと思います」。
多くの困難を乗り越えた左腕は、宣言通り、千葉ロッテマリーンズの1位指名と言う夢を成し遂げた。米沢投手の更なる飛躍に期待したい。
(石川テレビ・8月31日放送)
