東日本大震災の津波で父を亡くし、現在、岩手県大槌町の高校で教師を務めている男性がいます。15年前に抱いた決意を胸に、当たり前の日々の尊さを生徒たちに伝えています。
佐藤諒さん(31)。岩手県内陸部の北上市出身で現在は沿岸部にある大槌町の大槌高校で数学の教師を務めています。
佐藤さんは、東日本大震災から15年半を迎えるのに合わせて、「今を生きる」と題した特別授業を行いました。教材に使ったのは、津波で父親を亡くした当時の高校生の作文です。
『体育館の冷たい床に横たえられていた父と、6日ぶりの対面をした。覚悟していたとはいえ、その衝撃はたとえようもなかった』
悲痛な胸の内を作文につづったのは、15年前の佐藤さん自身でした。
東日本大震災による死者・行方不明者が1286人に上った大槌町。
2026年4月には、平成以降、国内2番目の規模となる山林火災も発生し、1708ヘクタールが焼けました。
15年余りの間に二度の大災害に見舞われたこの町で、佐藤さんは自身の経験を通し、生徒に伝えたいことがありました。
佐藤諒さん
「みんな誰か周りにいて日々を過ごしているはず。その人たちへの感謝の気持ちは忘れないでください」
佐藤さんの父・正行さん(震災時49)は、震災の発生当日、佐藤さんを北上市内の高校へ送り届けた後、仕事で訪れた沿岸部で津波にのまれ亡くなりました。
この日の父とのやり取りを、佐藤さんは作文にこう記しています。
『「行ってきます」そう言って私は車を降りた。いつも繰り返してきたこの何気ないあいさつが、まさか父と交わす最後の言葉になろうとは―』
宮古市で震災後に整備された三陸鉄道・新田老駅。父・正行さんの遺体は、この付近で見つかりました。
佐藤諒さん
「父親は車ごと流されたんですけど、その車があったのがここなんです」
佐藤さんは毎年の命日などにこの場所を訪れ、正行さんを悼んでいます。
宮古市の田老地区では震災前から高さ10m、総延長2400m余りの巨大な防潮堤が整備されていました。
しかしあの日、津波はその防潮堤を越えて町を襲い、222人が犠牲となりました。
津波にのまれる直前、正行さんは1通のメールを佐藤さんに送っていました。
「大丈夫か?どれくらい揺れた? 父ちゃんは沿岸を走っている。津波にのまれるかもしれない」
最期のときまで、息子の身を案じていたのです。
佐藤諒さん
「何かの間違いであってくれとずっと思っていたし、心にぽっかり穴が空いている。(父は)あまり多くを語らない人でしたね。でも優しくて常に温かい人だった。本当に恩返しがしたかった」
佐藤さんがあの作文を書いたのは、当時の担任に勧められたことがきっかけでした。悲しみをつづるうち、少しずつ気持ちが整理され、同じ思いをする人をなくしたいと強く思うようになりました。
佐藤諒さん
「父親を失って、自分には何ができるんだろうとすごく自問自答したが、その経験で大きく成長したので、それを将来の子どもたちにも私の口で伝えたいなと思って」
原稿用紙8枚に渡る作文には、佐藤さんの夢と決意もしたためられていました。
『私の夢は教師になることだ。私がこの震災で身をもって体験し学んだことを、私は私の生徒たちに伝えなければならない』
この日、佐藤さんが伝えたかった思い。
それは、当たり前に生きる日々の尊さでした。
佐藤諒さん
「(父に)感謝を伝えられなかったことが今でも悔いが残っている。『ありがとう』の一言すら言えないままお別れしてしまった。みんなは俺みたいな人間を見られたから同じ思いを抱えないよう日々生きてほしい」
佐藤さんの言葉を生徒たちはしっかり受け止めていました。
1年生の生徒
「私たちが何気なく過ごす毎日は当たり前ではなくて、一日一日を大切に過ごさなければと思った」
「反抗期などで感謝を伝えられないことがあったから、大切な人に感謝をしていきたい」
50分間の授業は、佐藤さんにとっても特別な時間となりました。
佐藤諒さん
「(作文を)あのとき書いた自分は、教員になって震災の経験を語ることを夢にしていたので、その夢は十分達成できたと思う。ちゃんと生徒に届いていればいいと思う」
当たり前の日々の尊さを伝えたい――。
佐藤さんは父との別れを機に抱いた決意を胸に、これからも生徒たちと向き合います。
