岩手県北上市東部の山あいに位置する口内町。江戸時代、この地域は仙台藩領の最北端にあたり、南部藩との境を守る交通・軍事上の重要拠点だった。
かつては仙台藩最北端の要害「浮牛城」が置かれ、藩境防衛の最前線として大きな役割を果たしていた。
この口内町には、「口内」と「飛(とび)」という歴史を感じさせる地名が残されている。
長年にわたり岩手県内の地名を調査している宍戸敦さんによると、「口内」という地名は江戸時代にはすでに使われていたという。
一方で、その由来については明確な記録が残っていない。
宍戸さんは、「口内」はアイヌ語系の地名である可能性が高いと考えている。
宍戸敦さん
「『口内』をアイヌ語として考えた場合、『クツ・ナイ』に分けられると考える。『クツ』は絶壁のあるところ、『ナイ』は川という意味。つまり、川の周辺に絶壁がある場所という意味になると思う」
口内川の下流域には「岩ノ目」と呼ばれる場所があり、川沿いに切り立った崖が見られる。
宍戸さんは、「この地形が『口内』という地名の由来となった場所と考えることもできる」と話している。
口内町中心部の西側には、「飛」と書いて「とび」と読む地域がある。
一見すると不思議な地名だが、宍戸さんによると、その背景には江戸時代に全国を揺るがせた「伊達騒動」があると伝えられているという。
伊達騒動は、仙台藩・伊達家内部で起きた権力争いだ。
仙台藩の実権を握った一関藩主・伊達宗勝と、その政治に反発する勢力との対立が続く中、宗勝の家臣が反対派を切りつける事件が起きたことにより、最終的に宗勝は失脚し、領地と身分を失った。
宍戸さんは次のように説明する。
「失脚した伊達宗勝の家臣たちも各地へ分散して配置された。口内の浮牛城主だった中島氏のもとにも、宗勝の家臣だった足軽(警備担当の武士)が移動してきた。それが今の『飛』。移動先が(中島氏の住んでいる)城から離れた飛び地だったため、『飛』という地名になった説もある」
口内町の郷土史を研究する渡邉兵衛さんによると、伊達騒動後、一関藩の家臣たちは各地へ配置換えとなり、そのうち20人が口内の「飛」に移り住んだという。
渡邉兵衛さん
「口内の領主・中島氏の下にも足軽がいたが、その足軽とは別で仙台藩直属だった。仙台藩との口内の中島氏の二重の管理を受けていた」
口内の住人であると同時に、仙台藩の所属でもあった「飛」の足軽たちは、時には遠方へ出向き警備の仕事を担うこともあったという。
渡邉兵衛さん
「口内の領主・中島氏の管理を普段は受けていたが、仙台藩で騒動があった時などに警備に出る役割もあった。南部藩(盛岡藩)で百姓一揆が起きた時は、藩境の警備を命じられた。仙台藩が幕府から北海道の警備を命じられた時は、北海道の白老・国後島・択捉島まで出向き、警備を行ったという記録もある」
渡邉さんは「今では足軽の家系の方々も、地域の住民として他の人たちと変わらない暮らしを送っている」と話す。
仙台藩最北の要害だった口内町。アイヌ語に由来すると考えられる「口内」、そして伊達騒動の歴史を今に伝える「飛」。
何気なく使われている地名の中には、藩境の防衛や人々の移住の歴史が今なお刻まれている。
