北海道で44人が犠牲となった北海道胆振東部地震から、9月6日で8年を迎えます。
おじさんの遺志を継いで故郷で音楽を紡ぎ続けてきた男性の歩みを、私たちは追い続けてきました。
その8年の軌跡です。
厚真町のステージに響くメロディー。大切な人を思い浮かべての演奏です。
「演奏は普段通り。曲もしっかり届いているのではないか。『よくやった』と言っているのでは」(高橋 尚揮さん)
厚真町で生まれ育った高橋尚揮さんです。
「いま24歳で、10月で25歳になります」(高橋さん)
あの日のことを、今でも鮮明に覚えています。
「もう8年たったのかという感じです。まあ、時間はたちましたよね」(高橋さん)
2018年9月6日午前3時7分、北海道胆振東部地震が発生。
北海道全域で停電が発生し、ブラックアウトに見舞われました。
札幌市では震度6弱を観測し、大規模な液状化現象が発生。多くの住宅が傾き、道路が陥没しました。
「家屋が土砂に押し流されています」(地震直後のヘリコプターからのリポート)
北海道で初めて震度7を観測したのが、胆振地方の厚真町です。
緑豊かな町は土砂に飲み込まれ、町内で37人が犠牲となりました。
その中の1人が松下一彦さんです。
高橋さんの祖母の弟、いわゆる大叔父に当たります。
親愛の情を込めて「かずおじさん」と呼び慕っていました。
「家がここにあった。てっぺんから崩れてきた。何でこんなことになっちゃったのか」(高橋さん)
松下さんは農業を営みながら、町民が作る吹奏楽団で長年、指揮者を務めていました。
地震の直後、私はその楽団でパーカッションを演奏していた高橋さんと出会いました。
当時、高校2年生でした。
「中学校に入る前に、おじさんに『楽しいよ』と言われて、中学生の時に楽団に入った」(高橋さん)
「かずおじさんは吹奏楽団に入ると言った時にすごく喜んでくれた。『うちの息子は、そんなに上手ではないよ』と笑い話をしたが『たいしたものだ』と、すごく喜んでくれた。おじさんが亡くなったのは痛い」(尚揮さんの父親 高橋 清吾さん)
8年の歳月が過ぎ、高校生だった高橋さんは楽団とともに歩みを進め青年へと成長しました。
おじさんのような農家の役に立ちたい。
高橋さんは高校卒業後、地元に残り農業用水の整備などを行う仕事に就きました。
農家を支えながら、震災から立ち直る町を見つめてきました。
「時間がたつとどんどん忘れられるのは事実。そこをどうしていくか」(高橋さん)
厚真町では1957年をピークに人口減少が続き、胆振東部地震以降、それがさらに進みました。
高橋さんには今、ある気持ちが芽生えてきました。
「かずおじさんも農家をやっていたので、農家をやりたいという気持ちがある。いろいろ学んでいるが、まだ全然わからないことだらけ」(高橋さん)
このあとも、故郷で暮らし続けていくのでしょうか。
「僕はずっといる。町から出ることはないと思う。地元が好き。人が多いところは嫌いなので」(高橋さん)
この日は町内の神社の祭りで演奏です。
おじさんが生前、最後にタクトを振ったステージです。
愛するおじさんは、もういません。
しかし、演奏する高橋さんの視線の先には、確かにその姿がありました。
「真剣な顔をして指揮棒を振っている姿を、僕は今でも思い出す。きょうも。僕にはいた。皆にもいたのでは。今後も、それは変わりない」(高橋さん)
「松下さんはあのころ本当に頑張っていた。その遺志を継いで、継続は力なりというが、継続してよくここまでやってきたと思う。元気をもらった。頑張っていく」(厚真町民)
会場は温かい拍手に包まれました。
「音楽を届けることは、やはり重要。復興は皆、ひとりひとり力となって進んでいる。僕らは音楽を届ける面で役にたてているのか、たてていないのか。たてていますかね? そう言ってくれるならうれしい」(高橋さん)
悲しみを乗り越え、故郷に生きる。
あの日の少年は成長し、これからもおじさんと共に歩み続けます。
