岩手県奥州市水沢には、「跡呂井(あとろい)」という珍しい地名が残されている。住所ではないものの行政区名として受け継がれており、その名は古代蝦夷の英雄として知られる「阿弖流為(アテルイ)」に由来するとの説がある。
長年にわたり岩手県内の地名を調査している宍戸敦さんは次のように説明する。
「跡呂井は、古代胆沢の蝦夷の長である阿弖流為(あてるい)から名付けられたという説がある。阿弖流為は「巣伏の戦い」では、(朝廷軍)紀古佐美(きのこさみ)、あるいは坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)と激戦を交えた戦いがあるが、この時の英雄」
水沢には、アテルイを今に伝える場所が点在する。その一つが「阿弖流為の郷」だ。広場には力強い印象を放つモニュメントが設置され地域の歴史を今に伝えている。
えさし郷土文化館の学芸員・野坂晃平さんは、「縄文の土器とアテルイの表情を融合させた象徴的なモニュメント。古代蝦夷の英雄としてのアテルイは現代に至っても地域の人たちにとって誇るべき存在というふうに捉えられている」と話す。
広場の向かいには、巣伏の戦いを描いた絵画も展示されている。紀古佐美率いる律令軍(朝廷)と、アテルイ率いる蝦夷との激戦を表現したものだ。
野坂さんによると、アテルイは北上川周辺の地形を巧みに利用した戦略を展開したという。「紀古佐美率いる大軍を北上川まで誘い込み、少ない兵力で迎え撃った。退路を断つ形で地の利を生かし、大軍に勝利した場面が描かれている。」
少ない兵力で大軍に挑み勝利したことから、アテルイは優れた戦略家でもあったと考えられているという。
巣伏の戦いでは勝利を収めたアテルイだが、その後、征夷大将軍として知られる坂上田村麻呂が蝦夷平定に乗り出す。
しかし野坂さんは「巣伏の戦いのような大規模な合戦はなかった」と話す。
野坂晃平さん
「坂上田村麻呂は前線基地を造り蝦夷との融和を試みた。、その後アテルイらは降伏し朝廷と蝦夷の戦いは収まったと考えられている。坂上田村麻呂はアテルイの資質を認めていて、アテルイが捕らえられた後、朝廷に助命嘆願(命を助けてもらうよう頼むこと)をした話は広く知られている」
アテルイゆかりの地名は、跡呂井だけではない。
宍戸さんによると、「巣伏の戦い」の名は、かつて存在した「巣伏村」に由来する。その後、この地域は「四丑村(しうしむら)」と呼ばれるようになったが、自治体合併などによって村名は消滅したという。
それでも現在、「四丑橋」という橋の名前に当時の地名が残されている。
野坂さんは、「四丑の面影を残しているのは現在では橋の名前だけ」と話す。
普段何気なく目にする地名や橋の名前。その由来をたどると歴史へとつながっている。
「地名や橋の名前を手がかりに地域の歴史をさかのぼると、当時の人々や出来事を想像することができる」と野坂さん。
奥州市水沢には、「跡呂井」や「四丑橋」といった地名の中に、今もなお古代蝦夷の英雄アテルイの記憶が息づいている。
