81年前、長野県の上伊那地域などに疎開してきた旧陸軍の秘密機関「登戸研究所」。爆弾の製造などに子供たちが動員され、戦争が長引いた場合は住民も義勇軍として地上戦に巻き込まれた恐れがありました。当時のことを直に知る人が減る中、関係者は戦争の記憶を次の世代に繋ごうとしています。
■学校が兵器製造の拠点に
太平洋を越えてアメリカ本土を攻撃した「風船爆弾」の模型。水をろ過する器具には「軍事秘密」の文字が...。実験用の様々なガラスの器具も残っています―。
2024年に開館した長野県駒ヶ根市の「登戸研究所平和資料館」の展示品です。81年前、この場所は「本土決戦」に向けた兵器の研究や製造の拠点になっていました。
資料館の入る木造の建物は、現在の小学校にあたる「中沢国民学校」の旧校舎です。1945(昭和20)年の春、この地に陸軍の特務機関「登戸研究所」が疎開して来ました。
■研究所の跡地は明治大のキャンパスに
「登戸研究所」は、正式名称を「第九陸軍技術研究所」といい、1939(昭和14)年に神奈川県川崎市に置かれました。敷地は約35万平方メートル。最盛期の1944年には100棟を超す建物があり1000人近くが働いていました。
その敷地の約半分が現在、明治大学生田キャンパスになっています。戦後も残された研究所の建物を保存・活用して2010年に「明治大学平和教育登戸研究所資料館」が開館しています。
■偽札製造や毒物の研究も…秘密機関の実態
登戸研究所は、旧陸軍の「秘密戦」「謀略戦」のための研究開発、製造を担っていました。
例えば、「風船爆弾」や「電波兵器」のような新兵器の開発、日中戦争で交戦中だった中国大陸の経済の混乱を狙った偽札の製造、毒物・生物兵器の研究などです。
■終戦の年、長野県に疎開 目的は?
太平洋戦争の戦局が悪化し、都市部への空襲が激しくなったのを受け、そんな秘密の機関が終戦の年の4月までに長野県の上伊那地域を中心に信州の各地に移って来ました。
軍事史が専門の明治大学の山田朗教授は、疎開後の登戸研究所について次のように話します。
明治大学文学部(軍事史) 山田朗教授:
「疎開後に登戸研究所でやっていたのはどちらかというと敵の後方をかく乱する遊撃戦、ゲリラ戦。そのためのいろいろな砲火道具とか、時限爆弾とかそういうものを伊那では作っていました」
■12歳まで「戦争に参加させられた」
小型爆弾の製造に動員された当時14歳の男性の証言:
「『爆弾だから注意して詰めるように』と上官から言われた。ブリキの蓋をしてハンダ籠手を使った。作ったのは『ハハリユ』だけだった」
登戸研究所では、主に学校などを使って、下は12歳の子供まで動員して、「ハハリユ」と呼ばれた携帯可能な小型爆弾を作っていたのです。
疎開後に、中沢国民学校などで作られていたのが「ハハリユ」の一つ、「缶詰爆弾」です。
当時15歳の女学生の証言:
「火薬を計って缶の中に棒で隙間なく詰めました。火薬をふき取り、男子が導火線を付けて仕上げました。天竜川の河原で爆発の実験が無事成功し、みな大声をあげて喜びました」
8年前の2018年に地元有志が立ち上げた「登戸研究所調査研究会」事務局長の松久芳樹さんは話します。
登戸研究所調査研究会 松久芳樹事務局長:
「学校ではなくて子供たちは登戸研究所の一員として扱われていた、戦争に参加させられていたんです」
■「本土決戦」では住民も義勇隊に
同じ頃、現在の長野市を含む善光寺平一帯では、いわゆる「松代大本営」のように巨大な地下壕を掘って政府の中枢を移転し徹底抗戦を図る「本土決戦」に向けた準備が進んでいました。
登戸研究所もその一翼を担っており、戦争が長引いていたら、住民は「国民義勇戦闘隊」として軍に組み込まれたと見られています。
明治大学文学部(軍事史)山田朗教授:
「正規軍の部隊と一緒になってアメリカ側を混乱されるような作戦です。担い手は地元の人たちでした」
■沖縄戦と同じ状況になった可能性
2026年2月、登戸研究所調査研究会のメンバーは沖縄県を訪れました。
沖縄では終戦の年の3月から6月にかけて住民を巻き込んだ地上戦が行われ、日米合わせて約20万人が死亡しました。沖縄県のまとめで、住民の犠牲は約9万4000人にのぼりました。
研究者から、沖縄戦でも小型爆弾のことを「ハハリユ」と呼んでいて、少年たちの部隊が戦車に体当たり攻撃したことを聞きました。
登戸研究所調査研究会 松久芳樹さん:
「上伊那で作られた爆弾も当時の陸軍の暗号『ハハリユ』と呼ばれ、同じ名前の爆弾が沖縄戦でも使われていたことが明らかになりました。戦争が長引いていれば上伊那地域も沖縄戦のような状況になった可能性があると思います」
■校庭で大爆発 終戦後も残った危険
8月15日の終戦とともに上伊那に疎開していた研究所も閉鎖され、大量の文書や器具、薬品などが焼却されたり埋め立てられたりして処分されました。
残されていた毒入りのチョコレートを子供が誤って食べてしまい、医者に運ばれる騒ぎになったり、中沢国民学校の校庭に埋めた資材などが突然大爆発し、100メートル程離れた校舎のガラス窓が割れたりしたという証言が残っています。
■高校生が掘り起こした地域の歴史
時の経過とともに登戸研究所のことが次第に忘れ去られる中、終戦から40年以上経った1989年、赤穂高校(駒ヶ根市)の「平和ゼミナール」が地域の歴史を掘り起こそうと調査を開始しました。
顧問の教師の木下健蔵さんと生徒が元将校などの証言を集め、研究所に光を当てました。
生徒たちが集めた500点にのぼる資料は明治大学で保管されていましたが、資料館の受け入れ態勢が整ったことで、2025年に駒ヶ根市に移されました。
■夏休み講座で「戦争」を学ぶ子供達
8月7日、駒ヶ根市の登戸研究所調査研究会が夏休みの子供達に向けた特別講座を開きました。去年に続いての開催です。
「大きいんです、直径10メートルの風船です」。
登戸研究所調査研究会 松久芳樹事務局長:
「米軍の侵攻作戦が、大本営の移転する長野を焦点にどんどん進むだろうと、それがだんだん分かってきたからこの地域の作戦を強化したんです」
中学生:
「当時、地域の人はどういう風に受け止めていたんでしょうか?」
松久さん:
「戦争に協力するのが当たり前、そんな風潮になっていたんです」
講座に参加した子供たちに聞きました。
小学2年生:
「昔の戦争のことを学びました。昔のものも初めて見てびっくりしました」
中学1年生:
「自分の住んでいる地域も戦場になる可能性があったというのは衝撃だった」
上伊那地域に登戸研究所があった当時のことを直に知る人が減る中、研究会では、「次世代への継承」に力を入れています。
登戸研究所調査研究会 松久芳樹事務局長:
「自分たちのふるさと、生まれたところにどういう歴史があったのか私たちは直接伝えたい。そのためにこの資料館があればいいと考えています。
■中学生が考える「伝えること」の重み
岡谷市の男子中学生は、今年度、「総合的な学習」のテーマに「平和」を選び、7月には中沢小学校出身の教員の勧めで駒ケ根の資料館を訪れました。
「もし自分がそういうことを体験したらと思うと本当に怖かった」
学習の成果発表は9月で、81年前の戦争のことをどう同じ世代に「伝えるか」考えています。
「今の時代、どんどん戦争について語っていく人が減っているので、『伝えること』は自分の研究の成果にもなるし、日本の未来にもつながると思います。二度と戦争を起こさないよう、語り継ぐことが大事なんだと思います」
戦後81年―。
戦争体験者やその声をすくい上げてきた研究者が減る中、残された資料を活用し、伝える役割がますます重要になっています。
