「生まれたところは誰にでも大切なもの。そこに思いをはせるというのは時間が経つほど強いものになる」――。東日本大震災から15年を迎えた3月11日、立山町の岩峅雄山神社で、ふるさと福島への祈りを捧げる男性がいた。高倉文尚さん(50)は、津波と原発事故の影響で避難を余儀なくされ、富山で新たな人生を歩み続けている。

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津波が森や建物を次々と飲み込んだあの日

「地震の2、3日前に一回大きな地震があった。古い建物にいたから次に地震があった時には飛び出そうとか話をしてたら本当に起きた」

15年前のあの日、高倉さんは福島県南相馬市の相馬小高神社で神職として働いていた。相馬野馬追で知られるこの神社は高台にあり、多くの人が津波から逃れるため駆け込んできた。

当時、高倉さんが撮影した写真には、海から押し寄せる津波が森や建物を次々と飲み込む様子が記録されている。大切な神社の鳥居も崩れた。

「森や家がだんだん消されていって、津波が近くにくるのが見えた。海って普段は見えないが、津波の高さがちょうど見える。全部が波。津波で消されている」

地震の記憶について高倉さんは「完全に切り取ったかのように断片的に覚えている」と振り返る。

原発事故で避難、学生時代の縁で富山へ

高倉さんが富山に避難したのは、津波による被害だけが理由ではない。小高神社は東京電力福島第一原発から17キロ、自宅は25キロの場所にあった。原発事故で避難を余儀なくされたのだ。

地震から2日経った3月13日の朝、まず親戚の家がある新潟県柏崎市へ避難。その後、学生時代に雄山神社の峰本社でアルバイトをしていた縁から、富山県立山町に移ることを決めた。

たどり着いたのは立山町のコテージ。避難所とは違い、食料や物資が支給されないため、生活を立て直すのに必死だった。

富山の知り合いからの支援を受けながら、「なんとかしないといけない」という思いで日々を過ごした。

「毎日ご飯を食べられるということは当たり前だけど当たり前じゃない」

いつふるさとに戻れるかわからない日々が続く中、高倉さんは「生きるため」富山で暮らし続けることを決断した。

「仕事先が20キロ圏内だと帰れない。帰っても何もできない、明日のご飯を食べないといけない。毎日ご飯を食べられるということは、当たり前だけど当たり前じゃないと思って今いる」

東日本大震災から15年が経った現在、高倉さんは立山町の岩峅雄山神社で神職として働いている。3月11日の午後、この神社からふるさとへの祈りを捧げた。

「東日本大震災の犠牲者の皆さんに黙とうを捧げたいと思います、黙とう」

4万人がいまもふるさとに戻れない現実

あの日から15年が経った今も、原発事故の影響で4万人あまりがふるさとに戻れずにいる。

「まだまだ避難している人がたくさんいる。避難生活が終わらない限り復興とは言えない」と高倉さんは語る。

高倉さんが住んでいた福島の街は避難指示が解除されているが、今後も富山からふるさとの復興を祈りたいと話す。

「帰れるときは帰りたい。去年は帰れなかったので今年はふるさとを見たい」

震災から15年――。

富山の地で新たな人生を歩みながらも、ふるさとへの思いが褪せることはない。高倉さんの祈りは、同じように避難生活を続ける多くの人々の思いを代弁している。

「とりあえず今できることを一生懸命やっていたら時間が経っていた」

そう語る高倉さんの言葉からは、困難な状況の中でも前向きに生きる強さと、決して消えることのないふるさとへの愛情が伝わってきた。

(富山テレビ放送)

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