約100年前、現在の山鹿市鹿本町に住んでいた少年が映画『忠臣蔵』を見て、記憶を頼りにペン画で再現しました。これを活弁と生演奏でよみがえらせる上演会が予定されています。このキネマ画の魅力に迫ります。

【芹川 英治さん】
(すこいですね。これを描いたのは芹川 文彰(せりかわ・ぶんしょう)さん・・・)「そうです」
(伯父さんにあたる方?)
「そうですね、親父の兄貴です」
(装丁されているんじゃないですか。ちゃんと本の形になっているじゃないですか。どなたがされたんですか?)
「本人がたぶんやったと思うんです」

『忠臣蔵』。時は元禄15年12月14日、大石内蔵助ら赤穂四十七士が吉良上野介の屋敷に討ち入り、亡き藩主の敵を取る、「最も愛される時代劇」です。

これは1926年に公開された当時の大スター、尾上松之助 主演の無声映画『実録忠臣蔵』を見た芹川文彰さんが15歳のときから3年かけてペン画で再現したものです。500コマ、180ページにも及びます。

【芹川 英治さん】
「これは私が中学生の頃から(実家に)あるのは知っていました。ただ、ちょっと見ただけでそのあと忘れていたんですよ」
(文彰さんが映画館で見て、記憶を頼りに描いたという)
「そういう記憶力があったのかなと」
(細部まで描き込んで、セリフまで書き込んで、見たものを写真のように記憶できる能力だったんじゃないかなと」

これを描いた芹川 文彰さんは、のちに東京の美術学校で絵を学ぶものの病気で中退。写真ぎらいでその姿を写したものは1枚もありません。

【芹川 英治さん】
「そのくらい世間と離れているというか、伯父は哲学者みたいなところがあって、周りとなかなか意見が合わなかったりして」

ところどころ、人物のセリフが漫画の吹き出しの形で表現され、迫力あふれるタッチに加え、馬や人物が走る場面でまるで漫画のような手法でスピード感を表現しています。

このペン画集は研究者の間で「キネマ画」と呼ばれています。映画『忠臣蔵』のフィルムが完全な形で残っていないため、作品を補完する映画史の資料として、また、漫画文化史を語る上で、貴重な資料とされています。

芹川 文彰さんは73歳で亡くなりました。最後の4年間は病院で過ごし、絵を描き続けていたといいます。

【芹川 英治さん】
「施設のスタッフが見て『わあ、ちょうだい、ちょうだい』と言って『みんないただきました』と。そういうふうにみんなが喜ばれてたんであればですね」

人付き合いは苦手でしたが、自然を愛する優しい人でした。

去年12月、このキネマ画『忠臣蔵』がよみがえりました。

同志社大学とおもちゃ映画ミュージアムが企画した上演会です。

活動写真弁士の坂本 頼光さん、サイレント映画ピアニストの天宮 遥さんが芹川 文彰さんの絵に命を吹き込みました。

【芹川 英治さん】
「大感動しました。弁士の力ってすごいなって。連続で(絵が)流れているような映画を見ているような感じで、お客さんが『まさかこんなに感動するとは思わなかった』『良かった』と言ってくれました」

2025年12月14日、赤穂浪士討ち入りの日に再び、このキネマ画『忠臣蔵』がよみがえります。

熊本市中央区の市民会館シアーズホーム夢ホールの大会議室で、活弁と生演奏による上演会が開催されます。

芹川 文彰さんが100年前に描いたキネマ画『忠臣蔵』。

再び命が吹き込まれる瞬間を体感しませんか?

テレビ熊本
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