岩手県「金ケ崎町」は南西内陸部の胆沢郡北部に位置し北上市と奥州市と接している。地名に「金」という文字が入っているが、この「金」とは一体何を表すのか。
長年にわたり県内各地の地名について調査し著書も手掛けている宍戸敦さんは、次のように語る。
宍戸敦さん
「金ケ崎の『崎』は台地上の先端の部分ということ。そして金ケ崎の『金』は『曲尺(かねじゃく)』という直角に曲がっている物差しの『かね』と同じように、直角に曲がっている先端部分のような地形が、金ケ崎の由来と考えられる」
曲尺(かねじゃく)は直角に曲がった金属の定規で、建設現場などで角材の角度を測るといった用途で使われている。
宍戸敦さん
「金ケ崎橋辺りから見ると、北上川が北から南に流れてきてちょうど直角に東の方に曲がっている。もう一つの考え方として、台地から川に対して直角の崖になっている。この二つのうちのいずれかだと考えられる」
曲尺を川に向かって照らしあわせてみると、確かに川の流れが急に東側に曲がっているのがよく分かる。さらに曲尺を地図に当ててみると、確かに直角になっている。
もう一つの直角は金ケ崎城跡に見ることができる。川に対して急な崖になっていることがわかる。
この二つの直角のどちらかが、金ケ崎町の「金」を表わしていると考えられる。
この金ケ崎町の北にある北上市相去町は、江戸時代に岩手県を二分していた南部藩と伊達藩の藩境であり、奥州街道とも交わる地点でもあることから大変重要な地域だった。
金ケ崎町の一部も藩境に位置する地域であることから伊達領の守りの境として、現在の金ケ崎城跡である金ケ崎要害を置いた。
この相去町と金ケ崎町の二つの地域には藩境に関する逸話が伝わっている。
ある武将が藩境を決めるためにこの地域に訪れた際、とある出来事がきっかけとなって境が定められたという。
地域文化学研究所の千葉周秋さんは次のように説明する。
千葉周秋さん
「旧奥州街道が通っているところを豊臣秀吉の家来・浅野長政が馬に乗って相去町にやってきた時、『境はどこだ』と近くで働いている人に聞いた。聞かれた人が境は三ケ尻瘤木丁(こぶきちょう)だと答えた。浅野長政は瘤木丁を通り過ぎて相去町まで来ていたので『戻るのは面倒、境はここ(相去町)にしてしまおう』ということで、藩境が相去になったという。この話は明治9年に明治天皇が来られるとき、先遣隊に伝えられた話が記録として残っている」
藩境を決めるためにやって来た浅野長政。
本来であれば北上市と金ケ崎町の境である三ケ尻瘤木丁が藩境になるはずだった。
しかし、北上を続け三ケ尻瘤木丁を通り過ぎてしまい、戻ることはせず自分の立っていた場所を境に決めたという伝説もある。
このような偶然が藩境を決めるきっかけとなったというのは、歴史の面白さを感じさせる。
大きく曲がる北上川に接し、藩境の地域として歴史を残す金ケ崎町。
金ケ崎城跡などからその歴史を感じることができる。