鹿児島の伝統工芸品として知られる「薩摩切子」。
100年以上途絶えていた歴史が復活したのが1985年。
今から40年前のことです。
その復元当初から薩摩切子を支えた職人は、2025年を大きな節目ととらえています。
技と思いを次世代へー
薩摩切子の今を見つめました。河内杏月アナウンサーの取材です。
色鮮やかで、優美な輝きを放つ薩摩切子。
鹿児島を代表する伝統工芸品です。
この薩摩切子の始まりは江戸時代末期、島津斉彬の時代に遡ります。
ガラス工芸の製造が盛んに行われ、美術工芸品としての薩摩切子が誕生しましたが、斉彬の急逝と幕末、明治の動乱の中で薩摩切子の歴史はいったん途絶えます。
それから100年余りたった1985年、ちょうど今から40年前に薩摩切子の復元事業が始まるのです。
鹿児島市磯にある薩摩ガラス工芸。
ガラスの成形から加工までを一貫して手がける薩摩切子の工場が誕生しました。
薩摩切子が復活する当初から携わった職人が今もガラスを削り続けています。
中根櫻龜さん(63)です。
「これは花見盃といって、器で花見をしてもらおうというくらい桜の花を散りばめた器」
兵庫県出身の中根さんは、専門学校でガラス工芸について学んでいました。
卒業間近に校長から進められて薩摩切子の復元に携わることを決意。
一度は途絶えた歴史を復元するため、中根さんが頼りにしたのがこの古びた図録でした。
薩摩ガラス工芸 薩摩切子職人・中根櫻龜さん(63)
「40年使い込んだから傷んでいる。(当時残っていた薩摩切子の)大半は色々な美術館の中に入ってしまって、すぐ手に取って見られる状況ではなかった。図録の写真を見て、それを忠実に真似るところから技術を学んだ」
試行錯誤を繰り返しながら40年前に作り上げたのが、この器です。
魚のうろこのような「魚子」と呼ばれる文様が特徴的な逸品です。
中根さん
「『魚子(ななこ)』が綺麗に彫れるようになったら一人前。久しぶりに見ると、これは大変だったろうなと思う」
薩摩切子の復元だけでなく、進化にも取り組んで来た中根さん。
この時あみ出されたのが2色のガラスを使った「二色被せ」と呼ばれる技法です。
二つの色が組み合わさることで、薩摩切子の特徴でもあるグラデーションに変化が生まれ、その美しさがさらに際立ちます。
当時、中根さんはこんなことを話していました。
中根さん
「いつも薩摩切子は私に課題をくれて、一つの課題をこなすと次の課題をくれる」
他の職人たちが帰った夜の工場に、中根さんの姿がありました。
黙々と作業に打ち込みます。
中根さん
「人から話しかけられないこの時間が『無』になりながら物と向き合えるとてもいい時間。江戸時代の職人と対話するその時間がとても重要。物を通して、頭の中でいにしえの職人と会話している」
中根さんにとって、いにしえの職人が手がけた特別な存在の作品があります。
Q.これはどういうものですか?
「脚付蓋物(きゃくつきふたもの)という薩摩切子。脚が付いた蓋物」
薩摩切子の三大名品の一つといわれ蓋や器はもちろん、それを支える透明な脚にも複雑な文様があしらわれています。
中根さん
「鹿児島で初めて見たのがこの切子。この存在感に圧倒されたのが今でも思い出される。これが彫れるようにならなくてはいけないという明確な目標をもらった」
中根さんは復活から40年の節目に次世代へのバトンタッチを考えています。
この脚付蓋物の復元に挑むのはこの道17年の上國料将さん。
元々、ジュエリーのデザインや販売の仕事を行っていました。
上國料将さん
「歴史をつくっている中の一員、その一人になれているのでプレッシャーもあるがそのプレッシャーを楽しみながらどんどん挑戦していきたい」
中根さんは40年前の自分と同じように、自らつかみ取るゼロからのスタートを後輩たちに望んでいます。
中根さん
「物を見て学ぶ、物を見て自分で感じる。物を見て自分で気付く。そこを私はなるべく黙って彼がどれだけ掘り下げて、学んで自分の手で表現できるか見守っていきたい」
薩摩切子の復元40年にあたって先週開かれた記者発表。
会場には次世代の職人が作った色とりどりの薩摩切子が並びました。
中根さん
「復興当初の人たちの熱い思いを受け継いでもらう機会にしたい。その思いを胸に刻んで、今までにない新しい創造の世界を広げてもらいたい」
一度は途絶えながらも、40年前に再び輝きを取り戻した薩摩切子。
復元当時の思いを次世代に受け継ぎ、さらなる飛躍にむけた節目の年を迎えています。