宮城県石巻市にある震災遺構、大川小学校。13年前、東日本大震災の津波で児童74人、教職員10人が死亡または行方不明となった。大川小に通っていた妹を亡くした、卒業生の佐藤そのみさん(28)は大学生だった2019年、大川小を題材にした2本の映画を製作した。当初は自身の心の整理のためだったというが、上映を求める声に応じて全国で自主上映を続けてきた。葛藤を抱えながらも、表現者としての自分を追求したい。今は自らの心の声にも、耳を傾けている。

石巻で上映「一番見てほしかった」
2024年8月20日、佐藤さんの映画の上映会が石巻市で開かれた。会場を訪れたのは約300人。小学生の孫2人と来場した石巻市在住の女性は「孫は当時を知らない。震災や大川小について学校の授業で聞くだけだったので見てもらいたかった」と来場した理由を語った。

直接死だけで3277人が死亡し、417人が行方不明となった石巻市(2024年2月末時点)。同じ石巻市といっても地域によって被害には差がある。この13年の歩みもさまざまだ。その中でも児童74人、教職員10人が死亡または行方不明となった大川小の被害はあまりに大きく、しばらく大川地区に足を運べなかった人もいる。

佐藤さんは「石巻の中で大川は特殊。大川小のイメージとかその後の裁判のイメージを持っている人もいるが、そうした大川の強い悲劇的なイメージが良い意味で変わる2作品。石巻の人に一番見てもらいたかった」と石巻で開く上映会の意味を話す。
「おはよう」が返せなかったあの日
元々、映画に関心があり、大川を題材にした作品を作るという夢があった佐藤さん。豊かな自然とお互いを気にかける温かい人のつながりがあった故郷のことは今も大好きだという。

佐藤さんは中学2年生の時、東日本大震災で大川小6年生だった妹のみずほさん(当時12)を亡くした。2011年3月11日の朝、不機嫌なまま、みずほさんの「おはよう」という言葉を無視してしまったという佐藤さん。その後、突然の別れが来るとは想像もしていなかった。「みずほにしか話せないことだらけだった」と妹の存在の大きさに気づいた。
大川小の校舎を解体するか保存するか議論となったときには、他の卒業生とともに、自分の言葉で「保存」を訴えた。

「あの校舎には、つらく悲しい記憶だけでなくこれからを生きていく残された子たちや、私のような卒業生、亡くなった74名の子どもたちの夢や思い出が詰まっています。私はあの場所に行くたびに”今を大事に生きなさい”と奮い立たされる気分になります」(2014年 都内で開催された意見交換会)
佐藤さんたちの意見もあり、大川小の校舎は震災遺構として保存されることになった。
「次に進みたい」上映の不安と葛藤
東日本大震災から8年が過ぎた2019年。大学生だった佐藤さんは2本の映画を製作した。
1本目は劇映画「春をかさねて」。震災で妹を亡くした14歳の中学生が、記者の取材やボランティアとの交流、同級生と接する中で、心が揺れ動く様子を描写。佐藤さん自身の経験が投影された作品だ。

2本目はドキュメンタリー映画「あなたの瞳に話せたら」。佐藤さんなど大川出身の若者たちが、亡くなった同級生や家族に対し手紙を書き、震災後の本音や決意を打ち明ける。

佐藤さん自身の内面をえぐり出すように作ったという2本の映画から、震災発生後の大川の人々の日常や遺族の心の移ろいを知ることができる。しかし、当初は誰にも見せないでおくつもりだったという。佐藤さんは2本について「震災直後に見た景色や考えていたことを作品の中に閉じ込めて『自分は次に進みたい』という思いで作った作品。皆さんが期待するような“被災者が作った映画”になっていないかもしれない」と話す。上映には常に不安と葛藤が付きまとった。それでも、上映をしたいという依頼があれば、全国各地で上映を続けてきた。
表現者として考える“これから”
作品を通して大川や防災の大切さを知ってもらうことに喜びを感じる一方、こうも感じていたという。「自分がいつまでもあの映画を作った人とか、『妹を大川小で亡くしたそのみさん』というイメージや期待を持たれたまま、年老いていくのがあまり好ましくないなと」

佐藤さんは今、東京で働きながら、表現者としての「佐藤そのみ」のこれからを模索している。「常に何か描きたいとか作りたいという気持ちが消えないので、それがある限りはどんな形でもいいので創作をしていきたい。十分に人生を楽しみたい」映画を通じて、大川を全国へ伝え続けてきた佐藤さんの言葉に、13年間の深い苦悩と葛藤が垣間見えた。
