原爆投下から79年になる2024年、生きていることに“後ろめたさ”を抱えてきた92歳の被爆者が重い口を開いた。自分に残された時間を知りながらも、封印していた記憶や苦しみを一つ一つ言葉にして紡いでいく。
92歳で被爆証言を始める
広島市中区で週に一度開かれるコーラス教室。
この記事の画像(12枚)なめらかに指揮する男性は才木幹夫さん、92歳。30年以上、この教室の講師を務めている。「私にとって音楽は救いです」と話す才木さん。生徒たちから「優しくて穏やかな先生。まず元気ですよね。私たちの目標の先生です」と慕われている。
才木さんは、79年前の8月6日、ヒロシマの戦火を目の当たりにした被爆者だ。2024年4月、92歳にして自らの被爆体験を伝える「証言者」の委託を広島市から受けた。
7月1日、広島市中区の原爆資料館で修学旅行生に被爆証言を行う才木さんの姿があった。長机の上に並んでいるのは何十枚もの直筆の原稿。証言活動の時間は約1時間だが、県外の修学旅行生にもわかるように戦前の広島の歴史や原爆が投下された経緯などを盛り込んだ。伝えたいことは山ほどある。しかし、自分の体験を思うように話せないまま終わってしまった。
「1時間は短いですね。自分の原稿でありながら消化不良のような感じを持ちます」と、限られた時間で伝えきれないもどかしさがある。才木さんは自問自答するように、「やっぱり自分のことを中心に話した方がいいのかな…」とつぶやいた。
あの日、体中を覆った強烈に明るい光
その翌日、才木さんは本川小学校の平和資料館を訪れた。被爆証言のヒントを探しに来たのだ。
本川小学校は爆心地から一番近い小学校で、被爆した校舎の一部が今も平和資料館として残されている。地下展示室に入った才木さんは懐かしそうに言った。
「おお、すごい。見覚えのある俯瞰図ですね」
そこには原爆が落とされた当時の広島を再現したパノラマが展示されている。
1945年8月6日。13歳だった才木さんは旧制広島県立広島第一中学校の2年生。その朝、現在の広島市中区土橋付近で空襲によって火の手が広がるのを防ぐためにあらかじめ建物を取り壊す「建物疎開」を行うはずだった。ところが、急きょ作業は休みになり、才木さんは爆心地から2.2キロ離れた、現在の広島市南区段原の自宅にいた。
「靴を履こうとしていたんです。しゃがみこんでいたので光は見えないんだけど、真っ白い、体験したことのない強烈な明るさですね。それが体中を覆ったことを覚えています」
目の前に広がる光景は脳裏から決して離れることのない“地獄”そのものだったという。
生きているつらさ、後ろめたさ
才木さんは原爆投下後の広島市内の様子を今も鮮明に覚えている。
「本当に焼け野原だからね。何もない。においはもう死臭がたまらなくてね」と話す。もし建物疎開の作業が予定通り行われ、土橋にいたら…
「土橋だったら即死でしょうね」
才木さんの視線は大きなパノラマを見つめたままだ。あの日、ほんの少しの“違い”が人々の運命を決めた。
爆心地に近かった旧制広島県立広島第一中学校では353人の生徒が亡くなった。その多くは中学1年生。4月1日に生まれた才木さんは、誕生日が4月2日なら中学1年生だった。しかし、1日早く生まれたことで一つ上の学年に。生死を分けたこのことに、才木さんは苦しんできた。
「一期下に親しくしていた後輩が2人いるんですよ。校舎の下敷きになって亡くなった。本当に紙一重でね、僕も一期下だったかもしれない。話したくない、見たくないという気持ちと、なんで僕が生きているんだろうと思うことがあるんですよ。今となったらおかしいかもしれないけど、後ろめたさを当時の人はみな持っていましたからね。“生きているつらさ”というのはあるんですよ」
才木さんが自らの被爆体験を人前で話すことは78年間、ほとんどなかった。しかし、ある出来事が才木さんを突き動かす。ロシアによるウクライナ侵攻だ。核の使用にも言及する大国に憤りを感じている。「侵略戦争はいけない。自国のために他国を戦争に陥れるわけですから。90という年を感じて、これはもう急がなければいけないと思った」と話す。
「1日でも長く証言を続けたい」
7月6日、広島市内の寺で被爆証言をする機会がめぐってきた。集まったのは原爆で親族を亡くした人や留学生など約100人。才木さんは「今日はもっともっと自分のことを話そうと思います。私の体験を伝えていきたい」と心に決めていた。
ひとつの事象を深く掘り下げて説明しようとする才木さん。「強烈な真っ白い光が見えました。途端に家が崩れて真っ暗になります。ほんの一瞬の出来事です。空にはものすごい炎の煙。地上には、焼け崩れ散乱した建物。まさに想像を絶する光景でした。そういう修羅場も序の口にすぎません」と、言葉に力がこもる。原爆のむごさを伝えたいという思いにあふれていた。
さらに証言は続く。
「被爆者たちは男女の区別がわからないぐらい大変な格好をしています。頭が真っ黒で、顔は膨れ上がって目も開けられない状態。その姿を見て、哀れみと怒りが湧いてきました。被爆者たちは前の人の肩や焼けちぎれた服の切れ端をつかみ、目がそんなに見えませんから、列を組んで歩いています。そして『水をください』って言う。私はポンプで水を汲んで、どんどん水をあげた。被爆者は本当に静かに水を飲んで頭を下げ、『ありがとうございました』と言ってまた列の後ろについて去っていく。水を飲ませて良かったのか悪かったのか、私も見当がつきません」
13歳の少年が見たありのままの光景。「水をください」と言われるままに必死で水を汲んだ記憶。「水を飲ませるべきだったのか」という答えのない問いに生涯向き合っていること…。長い間、封印してきた思いを語った。
そして最後に「争いのない世界の実現のために、欲望の世界からわかちあう世界へ発想を転換していかなければいけないと思います」と、平和のために勇気ある一歩を踏み出してほしいという願いを伝えた。
“後ろめたさ”を抱えて生きてきた79年間。しかし「今は生かされていることを無駄にしてはいけないと思います。原爆証言は私の一番大切な大きな仕事。とにかく健康に留意して1日でも長く証言を続けたい。でも年齢から考えて4、5年しかないんじゃないかと思いますけどね」と穏やかに話す。
迫りつつあるタイムリミット。それでも92歳の被爆者は、志半ばで亡くなった被爆者の無念を背負い、証言を続けている。
(テレビ新広島)