温かみのある手描きの線と6色の色彩で描かれた小さなうさぎの女の子の絵本。65年前、オランダ・ユトレヒトで誕生したミッフィーは現在約50ヵ国語に翻訳され、時代も国境も文化も越えて愛され続けている。

ミッフィーが多くの人の心をつかむ理由はなんだろうか。生みの親、ディック・ブルーナは独自のユーモアや情感を織り交ぜながら“シンプル”な世界観にこだわった作家だ。

今回は早稲田大学大学院経営管理研究科(早稲田大学ビジネススクール)で教授を務める長内厚さんが、「誕生65周年記念 ミッフィー展」(取材は東京会場・松屋銀座で開催時のもの)を訪ね、ブルーナが大切にしていた“シンプル”の意味を紐解きながら、ヒット商品の共通点やビジネスにおいてのシンプルの重要性について語ってくれた。

「ミッフィー」はきわめてシンプルなキャラクター

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ーーミッフィー展、いかがでしたか。

ミッフィーはきわめてシンプルなキャラクターですが、奥行きの深さに驚きました。ブルーナさんはシンプルな線と限られた色を使って、さまざまな感情やキャラクターの多様性を見事に描き分けています。

彼は一つの表情を描くのに何度も描き直しをしていましたが、これだけシンプルなキャラクターは目や口元の位置が少し違うだけで表情が変わってしまうし、ごまかしが効かない。シンプルな作品の裏にはたくさんの努力や高度な技術、複雑さが内在されているのだと思いました。

また、ここまでシンプルだからこそ、見ている人にダイレクトにメッセージが伝わる。ミッフィーが半世紀以上経っても人々の心に残り続け、その魅力が色褪せないのはシンプルだからこそだと思います。

ーー世界中で愛されているのも“シンプル”に起因していますか?

そうだと思います。時間が経って古さを感じるデザインの多くは、情報量が多いのが特徴かもしれません。線を書き足したり、色をたくさん使うなどして情報量が多ければ多いほど、その時代や文化、環境の影響を強く受けます。

だから、デザインを見てある時代を連想してしまう。反対に、シンプルだからこそ普遍的であり、グローバルに通用する。これは持続的に世界的なビジネスを展開するときのヒントになると思います。

『うさこちゃんは じょおうさま』 スケッチ 2006年
『うさこちゃんは じょおうさま』 スケッチ 2006年

ーー世代や時代を超えるミッフィーはユニバーサルデザインに通じるものもありますか。

あると思います。特に「色」はユニバーサルデザインの中で大切なもの。色の違いを視認できることが重要なのです。誰もが同じようには見えていないかもしれないですが、はっきりとした違いのある6色の基本色だけを用いることで、ミッフィーはどんな年齢の方でも、あるいは障がいのある方でも、全員とはいかなくてもかなり多くの人が色の違いを認識できるようになっています。

また、シンプルだからこそ、感情や細かいメッセージも言葉で補うことなく伝えられます。言葉で伝えることは外国人であったり、識字率によって認識に差が出てしまいます。その言語を知らなければ分からないからです。

しかし、ミッフィーはそのシンプルな画を見るだけで、誰もが見ることで理解できる、それも結構複雑なメッセージを伝えることができています。ピクトグラムやアイコンを使ったユーザーインターフェースのようなユニバーサルデザインに通じていると考えられます。

『ゆきのひの うさこちゃん』 原画 1963年
『ゆきのひの うさこちゃん』 原画 1963年

特にヨーロッパはヨーロッパ各国の言語の違いに対応できるようにテレビのリモコンの様々なボタンを言葉ではなく、アイコンのような図形で示していて、ビジュアルで理解できるようになっています。

こうしたさまざまな言語や文化があるヨーロッパ社会で育ってきたミッフィーだからこそ、ユニバーサルデザイン的な発想が誰に言われるでもなく内在しているのかもしれないです。

シンプルな商品企画こそ難しい

ーーシンプルなモノづくりは簡単なように思えますが、難しいのでしょうか。長内さんがソニーで商品企画などに携わっていたときはどうでしたか。

シンプルなものより、複雑なものを作るほうが実は簡単なんです。“あれもこれもつけよう。ないよりあるほうがいい”という発想は単純で、機能満載の高級モデルは低価格モデルを企画するより楽なんです。

それに、機能全部入りの“なんでもできる商品”は言い換えれば、その商品は何をするためのものなのかよくわからないということでもあり、使い手に解釈を委ねることになります。これは商品企画としては成功とは言えません。

一方、低機能な低価格の売れ筋の商品は、一見楽に作れるように見えるかもしれませんが、コストとのせめぎ合いの中で、必要最小限でありながら消費者に必要な機能はしっかり入っている必要がありますので、へたにシンプルにしすぎると、商品として決定的な何かをそぎ落とす可能性もある。その決定的なものがないと魅力がなくなり、購入につながらない。

どの機能が必要なのかを見極めて、シンプルにまとめること。これはかなり難しい判断で、その裏づけとなるような相当の努力やノウハウ、経験が必要です。無駄な機能を追加せず、シンプルにまとめることで、コンセプトが先鋭化し、顧客価値を高められる。何をするかが明確な商品のほうがお客さまに響きやすいですし、無駄な機能にお金を出させずに済むことになります。

あれもこれも足し算というのは自分の商品企画に自信がないことの表われでもあるわけです。なので、私が商品企画で心がけていたのは、足し算ではなく、引き算の発想です。

ーービジネスにおいても、シンプルさ、引き算の経営は大切でしょうか。

今の時代は変化が激しく、市場環境は複雑です。この変化に対応するために必要なのが柔軟さです。そこで参考にしたいのが、スタンフォード大学のキャサリン・アイゼンハート教授が2000年代前半に提唱した「シンプル・ルール戦略」です。彼女は、シンプルで原則的なルールだけを定めて、戦略を複雑化せず、状況に応じて柔軟に動くことが重要と説きました。このルールに則れば、市場環境の激しい変化にも一貫性を損なわずに素早く対応できます。組織も戦略もシンプルな方が柔軟に動けます。

例を出すと、ソニーは世代によって持たれているイメージが違う企業です。20代はアニメなどのエンタメの会社と思っているかもしれません。30代はゲーム、40代はウォークマン、さらにその上の世代はテレビやラジオの会社だと認識されているかもしれません。

一貫して何をしている会社なのか、実はよく分からないのがソニーなのです。歴史を遡ると、ソニーが最初に開発に着手した商品は電気炊飯器でした。でも、当時の電力事情が悪かったため、まともな製品になりませんでした。その後、テープレコーダーを日本で初めて商品化しましたが、テープレコーダーの商品化までは経営が苦しく、電気座布団を作ったりもしていました。

その後、採用しすぎた中間管理職の処遇という、あまり戦略的とは言えない理由で、トランジスタラジオの開発に乗り出したり、その後もレコード会社をはじめたり、金融機関をつくったりと、時代に合わせて何度も路線変更をしました。戦後の激しい不確実性の中では、ソニーのような柔軟な会社の方が生き残れたのです。

もし、創業当初に電気炊飯器だけに固執していたら、ソニーという会社は今日まで続かなかったかもしれない。ソニーの成長の強みは、自由闊達な新しいアイデアで新規事業にチャレンジするという基本方針は変えず、時代によって柔軟に戦略を変えてきたことです。

シンプルと複雑は対極にあるように思いますが、実は逆説的に結びついていて、複雑で不確実なものに柔軟に対応するためにシンプルなルールが必要なんです。

シンプルな操作性がますます重要になる

ーーでは、デジタル時代において、作り手がシンプルにこだわることにはどのような意味がありますか。

まず、シンプルに考えることとシンプルにしてはいけないところの線引きを明確にすることが大切です。世の中の事象はとても複雑で、さまざまな因果関係の連鎖によって成り立っています。

ダイバーシティを推進していく中で、一つの正解だけを求めていたら、マイノリティにとって暮らしにくい世の中になる。私たちは複雑な因果関係の連鎖から、すべての人が幸せになれる複雑な解を見つけていくことが求められるし、その複雑な作業は人間にしかできないことです。

だからこそ、人がやらなくてもできる作業や仕事をデジタル技術が代行し、人は人にしかできないことに集中する。こうした役割分担の中でこれからのデジタル機器は、人を煩わせないためのシンプルな操作性やデザインが必要になってくると思います。シンプルで楽になった分、人は人にしかできない社会の複雑な問題に専念できるのです。

ーーUIやUXにも“シンプル”が必要になってくる?

そう思います。昔の飛行機にはたくさんのスイッチや計器類があり、それらをすべて人間が操作する必要がありました。現在はほとんどの動作が自動化され、数少ないスイッチと計器を人間が確認すればいいだけです。

ただし、離着陸はいまだに人の手や判断が重要な動作で、そういった人にしかできない複雑な作業に集中させるために機械のインターフェイスはシンプルになっている。人が人にしかできない複雑な作業に集中するために、デジタル機器や自動車、身近な機械はシンプルな操作性が今後さらに大切になってくる。つまり、人工物がシンプルになることは、人間が複雑に対応するということと裏表なのだと思います。

“複雑に考える”が、人間に残された最後の仕事

『うさこちゃん おばけになる』 印刷原稿 2001年
『うさこちゃん おばけになる』 印刷原稿 2001年

ーーアウトプットをシンプルにすることと思考をシンプルにすることはまったく違うということですね。

はい。車や機械、UI、UXがシンプルになっていく一方で、人の思考は単純でいいのでしょうか。私たちは、社会の事象や人間関係の複雑性を忘れてはいけないと思います。ミッフィーがシンプルな思考で作られたものだったら、この豊かな表情や物語は生まれていない。ブルーナさんはミッフィーの表情一つとっても何回も作画し続けている。

シンプルに見えるミッフィーの絵本の中にも複雑性は存在していて、それは人の手でしかできない作業です。つまり、シンプルに見えるものも複雑に考えるというのが人間に残された最後の仕事だと思う。最近、Twitterでの誹謗中傷や偏った議論が問題になりますが、シンプルに捉えてはいけない社会構造を140字というシンプルな表現にまとめてしまうことの弊害だと思います。

何が正しい、正しくないということをシンプルな思考によって断定することは怖いことです。よりよい社会を作るために人間は複雑に思考しないといけない。人間が複雑に物事を考えられる余裕を生み出すために、それ以外のことをシンプルにすることが必要。私はこの「ミッフィー展」の鑑賞を通じて、その重要性を再確認しました。

「誕生65周年記念 ミッフィー展」
神戸会場(8月12日~8月24日)
大丸神戸店9階大丸ミュージアム<神戸>

https://miffy65.exhibit.jp/

提供画像)
『うさこちゃんは じょおうさま』 スケッチ 2006年
『ゆきのひの うさこちゃん』 原画 1963年
『うさこちゃん おばけになる』 印刷原稿 2001年
lllustrations Dick Bruna ©︎ copyright Mercis bv,1953-2020  www.miffy.com

文:浦本真梨子

プライムオンライン編集部
プライムオンライン編集部

FNNプライムオンラインのオリジナル取材班が、ネットで話題になっている事象や気になる社会問題を独自の視点をまじえて取材しています。