自慢話が多い人は対応には困ったものだ。実は豊臣秀吉の自慢話に戸惑う人たちがいたかもしれないという。秀吉の「褒められ待ち」の手紙に、織田信長の側近が返信したとみられる書状が新たに見つかったのだ。

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記者リポート:これが新しく見つかった豊臣秀吉に関する資料です。内容を今風にいうと『迷惑メールへの返信』ということです。

見つかった資料の多くは戦国時代の1578年から1582年に、豊臣秀吉(=当時の羽柴秀吉)からの手紙に対し、織田信長の側近が返事として送った書状の写しだ。

■秀吉は“自分の手柄”を信長の側近衆に送りつけていたか

時は戦国、秀吉は信長の命を受け、いまの兵庫県三木市にあった「三木城」を攻めていた。敵の食料の供給ルートを絶たせる兵糧攻めで敵を滅ぼした「三木合戦」だ。

その当時、秀吉が何をしたかというと…
兵庫県歴史博物館 前田徹学芸員:どうやら秀吉が、自分が三木の戦いでこれだけの手柄を上げたもしくは別所(三木城主)を完全に包囲して落城寸前だみたいな戦況報告を、信長の側近衆の一人や二人ではなくて、かなりたくさんの人間に手紙を送りつけていたらしい。

なんとも返信に困ってしまう「褒められ待ちメール」みたいな書状を、それほど親密ではない人たちにまでも送りつけていたという。 東京大学史料編さん所の村井祐樹准教授が2022年、インターネットのオークションで書状を見つけて落札し研究した結果、明らかになった。

■困った信長の側近たち『秀吉さんさすがですね』と返事か

自分の頑張りを自慢する内容を急に送りつけられ、困惑した信長の側近たちが連名で返信したとみられ、「さすがのお手柄で天下で大変な評判です」などと感想をつづっている。

兵庫県歴史博物館 前田徹学芸員:しばらくごぶさたしておりましてすみませんとか、言い訳の文言がまず最初についていて、そこから、『秀吉さんさすがですね』という褒め言葉が続いていくというような手紙が多くございまして。目上の人(秀吉)から手柄を伝えられたら褒めないわけにはいかないので、仕方ないから褒めておきましょうかというぐらいで書いてるのかと。

野心をもって手柄を広くアピールした秀吉だからこそ、後に天下を取ることができたのだろうか。秀吉の人となりが読み解けるこの資料の一部は、兵庫県立歴史博物館で4月6日から展示される。

■秀吉は自分のミスをうまい言い訳で手柄に仕立てた

秀吉は「褒められ待ちメール」のような書状を送りつけていたという。秀吉の上司は織田信長ですが、織田信長への報告に秀吉の性格が垣間見えるエピソードがある。

時は戦国、天正6年。今の兵庫県三木市で起きた「三木合戦」でのこと。三木城の城主・別所長治が信長を裏切って敵に寝返ったことから始まった。その時、播磨地方の平定を任されていた秀吉は、この裏切りを知った時に冷や汗をかく。 なぜかと言うと、信長への報告・連絡・相談が遅れるというミスをしでかしていたのだ。

身内の裏切りという一大事に秀吉は、「信長様へ 今回報告が遅れたのは、決して油断なんかではありません。別所長治の覚悟、様子を見極めておりました」という手紙を信長に書き、報告遅れをうまく言い訳した。

兵庫県歴史博物館の前田学芸員によると、そもそも秀吉が別所側の城をいくつか壊して勢力を奪おうとしたことが裏切りの理由とも言われているそうだ。だから、『うまく収めなきゃいけない。ちょっとまずいことをしてしまった』ということで、このような書状を送ったという。

やっぱり秀吉はやり手だったようだ。 あなたの周りにも、こんなタイプの人がいるかもしれない。

(関西テレビ「newsランナー」 2024年2月12日放送)

関西テレビ
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