中国・湖南省で2019年、「反スパイ法」に違反した疑いで逮捕され、一審で懲役12年の判決を受け、不服として上訴していた50代の日本人男性について、2023年11月3日に上訴が棄却された事が分かった。その結果、懲役12年の実刑判決が確定した。

こうした拘束された日本人を解放するために必要な「日本の覚悟」とは何なのか、元公安警察官がインテリジェンスの観点から考察する。

インテリジェンスの観点で見る反スパイ法

中国の「反スパイ法」を巡っては、2014年の法施行以来、17名の日本人がスパイ活動への関与を疑われ拘束された。そのうち1名が病死し、6名が刑期を満了したことで釈放され帰国。5名は起訴前に釈放されているが、2023年10月に逮捕されたアステラス製薬の男性と今回懲役刑が確定した日本人男性を含む5人が、いまだ拘束されている。

アステラス製薬の社員は中国「反スパイ法」で摘発された
アステラス製薬の社員は中国「反スパイ法」で摘発された
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これまでの日本人拘束の傾向から、日本の情報機関と接点があり、かつ中国内コミュニティーに深く関与する人物が拘束されているケースが多い。ただ、アステラス製薬の男性含め、全員がそうであるというわけではないことに留意しなければならず、あくまで一つの傾向である。

日中で異なる「スパイ」像

日本の情報機関との接点というと、まるでロシアのスパイのように情報機関の職員が一般人と秘密裏に接触し、お互いに秘匿情報を交換するといった形を想像されるだろう、だが、オープンな場での公開情報のやりとりや、その意見交換をしただけではどうだろうか。この場合スパイとは到底言えないだろう。

中国「反スパイ法」で拘束された日本人は17人に上る
中国「反スパイ法」で拘束された日本人は17人に上る

しかし、中国側からすれば、「日本の情報機関と接点を持った人物=スパイ」に映り、コミュニティーを通じて中国の有力者と接触する可能性がある、などと危険視している可能性がある。そして、中国は、スパイの定義を広範に据え、合法的な情報収集と非合法的な情報収集を区別することなく取り締まっていると言える。だからこそ反スパイ法では、広範な定義の上でかつ不当に拘束しているのだ。

中国からの偽情報も…

中国当局は日本の情報機関の動向や対象となる人物の監視は厳しく行っていると推察され、日本国内の動向も一定程度把握していると思われる。また、スパイ容疑で中国で逮捕され、6年もの間拘束された日中青年交流協会の元理事長・鈴木英司氏は、護送車の中で一緒になった友人である中国の外交官から「公安調査庁に中国スパイの大物がいる」と言われたという。

「公安調査庁に中国スパイの大物がいる」との情報も…
「公安調査庁に中国スパイの大物がいる」との情報も…

これは、恐らく中国が、鈴木氏が日本にその情報を持ち帰ることを想定し、偽情報を伝え、日本の情報機関を疑心暗鬼にさせ情報活動を抑制させる狙いがあったのではないかと推察する。通常、被疑者同士を同じ護送車に乗せることは、口裏合わせ等を防止するため到底考えられないからだ。

中国は他国のインテリジェンス活動に極めて敏感であり、自国内のスパイにも大きな不安を抱いているということである。そして、中国が設定したレッドゾーンに足を踏み入れた日本人を容赦なく検挙しているという一つの傾向がうかがえる。

一方で、反スパイ法を巡り外国企業は萎縮し、中国が失うものは大きいだろう。

日本に求められる覚悟とは

これまでの拘束事案では、日本政府は中国側に対して早期解放を要求しているが、早期解放には結びついていない。過去の例を見ても、起訴されてしまえば早期解放されるのは絶望的だ。

ではどうすれば自国民を早期に解放させることができるのか?不当拘束に対する世界のスタンダードは“人質交換”である。解放への有効な手立てだ。

一方で、日本が“人質交換”を実現させるには、日本としては、中国をはじめ国際的にも批判を受けない、至極正当な検挙を実現させなければならない上、対象人物に対する情報共有や実施体制面でも多くの課題が残る。

その課題をクリアしたとしても、更に深刻な問題がある。それは、「エスカレーションに耐える覚悟があるか」である。

日本がこのような人質交換を持ち掛けた場合、その場では解放が実現するかもしれない。しかし、それを受けて中国は不当な法運用による日本人や日本企業の検挙を加速させると容易に想像できる。その場合、エスカレーションしていく報復合戦に日本は耐えるだけの覚悟があるのだろうか。日本人解放に向けた課題は重い。

【執筆:稲村悠・日本カウンターインテリジェンス協会代表理事】

稲村 悠
稲村 悠

日本カウンターインテリジェンス協会代表理事
リスク・セキュリティ研究所所長
国際政治、外交・安全保障オンラインアカデミーOASISフェロー
官民で多くの諜報事件を捜査・調査した経験を持つスパイ実務の専門家。
警視庁公安部外事課の元公安部捜査官として、カウンターインテリジェンス(スパイ対策)の最前線で諜報活動の取り締まり及び情報収集に従事、警視総監賞など多数を受賞。
退職後は大手金融機関における社内調査や、大規模会計不正、品質不正などの不正調査業界で活躍し、民間で情報漏洩事案を端緒に多くの諜報事案を調査。
その後、大手コンサルティングファーム(Big4)において経済安全保障・地政学リスク対応支援コンサルティングに従事。
現在は、リスク・セキュリティ研究所にて、国内治安・テロ情勢や防犯、産業スパイの実態や企業の技術流出対策などの各種リスクやセキュリティの研究を行いながら、スパイ対策のコンサルティング、講演や執筆活動・メディア出演などの警鐘活動を行っている。
著書に『元公安捜査官が教える 「本音」「嘘」「秘密」を引き出す技術』