パラシュートが投下されている様子が写る1枚の写真。

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戦後間もない時期に、現在の福岡市東区で撮影されたもの。
パラシュートが落下する下には、当時 戦争捕虜の収容所があった。
「福岡大空襲」と「捕虜収容所」。
当時の機密文書からその関係を探った。

多数のパラシュート写真

パラシュートの目撃者・井上俊男さん:
向こうから来たですね。ここに落とした。10個ぐらいあったんじゃないか

箱崎中学校長・池田昌弘さん:
物資を上空から落としているという風には聞いているんですけど、落下傘がね

75年前。
1945年6月19日、1,100人を超える死者・行方不明者が出た福岡大空襲。
当時、アメリカ軍は捕虜たちの居場所をどこまで正確に把握していたのだろうか。

現在の福岡市東区箱崎地区。
多々良川にかかる名島橋、その手前には箱崎中学校が見える。
そして終戦から1ヶ月後の1945年9月、ほぼ同じ位置から撮影された写真。
その中央には落下中のパラシュートが写っている。

九州大学・藤野清次名誉教授:
こういうところでパラシュートという異質な物が落ちている。これは何だろうと

九州大学の藤野清次名誉教授。
落下地点に近い松林の周辺を見ていた際、ある「文字」の存在に気がついた。

九州大学・藤野清次名誉教授:
なぜかここに文字が、アルファベットが書いてある。拡大しますとPWって書いてある。いろいろ調べてみると「POW」もしくは「PW」というのは、「PRISON OF WAR」。キャンプ。戦争捕虜の人たちがいっぱい収容されている場所みたいだなと

捕虜収容所に向けて物資投下か

戦時中、九州にあった捕虜収容所は25カ所。
箱崎にあった収容所はうっそうと生い茂る松に覆われていた。

九州大学・藤野清次名誉教授:
捕虜収容所がカモフラージュ、もしくは擬態して、ここだけは松林キャンプPINE TREEキャンプと特別な名称が付いています

ここには兵士を率いる士官を中心に約700人の捕虜が収容されていた。
藤野教授はアメリカ軍が、戦時中からこの場所を把握していたことが、福岡市の東部を空襲しなかった1つの理由ではないかと推測している。

九州大学・藤野清次名誉教授:
士官クラスの捕虜の人たちが1カ所に集められてるということで、戦争が終わった後にこの空襲で、そういう士官クラスの方がたくさん亡くなられたというのが明らかになりますと軍法会議ものになるのではないかと。そういう風に考えました

岸本貴博記者リポート:
捕虜の収容所があった場所は現在、箱崎中学校のグラウンドになっています。学校の敷地のすぐそばに、今も松の木が生えているのがわかります

九州大学・藤野清次名誉教授:
私も50年ぶり、卒業して初めてここに来ました

藤野教授はこの中学校の卒業生だ。

九州大学・藤野清次名誉教授:
PW(の文字)は、この辺ですね

ーーこの辺に何かで書いたかもしれないと?

九州大学・藤野清次名誉教授:
箒の先か何か杖みたいなものでこう書いて、畑の中に「私たちはここだよ」という感じを知らせた可能性がありますね。あの松も当時からあった可能性もありますね。この辺りは全く変わらないし、ここしかないといった感じですね。結果的に福岡市の東区の方は、空襲はなかったと、一方、街中の方、商業地は赤坂から呉服町、あの辺一体は完全に空爆に遭ってしまった

なぜ、アメリカ軍は現在の福岡市中央区や博多区など、市街地を中心に攻撃したのか。
アメリカは、1940年に行われた日本の国勢調査の結果を諜報活動によって入手。

国内180の都市を、人口が多い順にリストアップしていた。
当時、横浜、神戸、広島に次いで、国内で8番目に人口が多かった福岡。
アメリカ軍が人口密集地を狙った理由は、市民の生活の場を焼夷弾で焼き尽くすことで、日本国民の戦意を失わせることにあった。

九州大学・藤野清次名誉教授:
アメリカは非常に高い情報収集能力を持っていた。そこに住んでいる人たちの意欲を無くそうという狙いも非常に強かったので、それが早く戦争を終わらせる方向に動いた

福岡大空襲と捕虜収容所の場所は、本当に関係があったのか。

アメリカの公文書調査組織の回答は…

その真相を探るためアメリカの公文書を調査・分析する組織に質問すると、当時の内部資料に基づく見解が返ってきた。

「アメリカ軍が、当時 戦争捕虜が福岡のどこにいたのか、正確に場所を把握していたとは思えません」

これは、戦後 アメリカ政府が公開した軍の機密文書。
「ブラックリストオペレーション」と名付けられたこの作戦の目的は、戦後 解放された捕虜に対し、十分な食糧の他、服などを速やかに提供すること。
ただ、捕虜の居場所を示すリストに記されていたのは、九州では、門司・大牟田・長崎・八幡の4カ所だけだった。
箱崎キャンプ(捕虜収容所)は、松の木の下に隠されていた

捕虜の居場所を示すサインは 箱崎の戦争捕虜収容所の近くに戦後 記されたため、パイロットが救援物資を落とすことができたのではないかと考えます

歳月が真相解明を困難に…

戦時中、箱崎に作られた捕虜収容所。
その存在と福岡大空襲との関係を解き明かすことは終戦から75年の歳月が流れたことで、より困難になっている。
そして、収容所を覆い隠していた松は土地の再開発のため次々と伐採され、今 姿を消しつつある。

九州大学・藤野清次名誉教授:
区画整理がされたり、道路が新しくできたり、建物の配置が変わると、辿れなくなるんです。目印がなくなってしまう。繋げていくこと、繋げるという動作がやっぱり必要なんでしょうね。そこで切っちゃうと全部途絶える。繋げるというのも人間1人ひとりの宿命というか、役目かなと思っていますけど

(テレビ西日本)