日本で始めて目撃され、記録されたギター

幕末の嘉永7年(1854年)3月27日。横浜村の沖合に停泊していた黒船では、日米和親のの盛大なパーティーが行われていた。

前年につづく二度目の来航。幕府側は会見委員首席の林大学頭(はやしだいがくのかみ)以下、江戸町奉行、浦賀奉行など60人余りを出席者として送り込んだ。甲板のテーブルには多くのごちそうが並び、酒もふんだんに振舞われた。(※注1)

幕府側参加者のほぼ全員がかなり酔っ払ったようで、儒者の松崎満太郎にいたっては、「若い水兵に誘われてポルカを習い、見よう見まねで踊った」という。その挙句にペリー提督に抱きつき「日米同心」という言葉を繰り返したらしい。

ペリー側の記録には、首席委員の林大学頭は毅然とした態度を維持し、伊沢美作守(みまさかのかみ)も冷静だったとしているが、林については「ミンストレル・ショー」(当時アメリカで流行していた音楽と寸劇をミックスした出し物)には頬を緩めたとも記されている。よく観察しているものである。細かいことだが、相手国の情報が乏しいときの外交とはそういうものなのだろう。

だから幕府側も負けてはいない。伊沢美作守付きの医師と薬持ちとして紛れ込ませた絵師によって、このショーを下船後に描かせている。このイラストは今も残っていて、演奏者も楽器も洒落たタッチで描写されている。

そして楽器編成で「三味線二人」と説明されたのが、日本で初めて目撃され、記録されたギターなのであった。

『ギターから見た近代日本の西洋音楽受容史』(竹内貴久雄 著)によれば、上記のように二度目の黒船来航が、ギターが日本に持ち込まれ、演奏された最も古い記録になるという。

ギターの「庶民の楽器」としての側面

初めてギターを見た絵師があえて結び付けた三味線は、ギターと同じ撥弦(はつげん)楽器に分類される。撥弦とは弦を弾くことで、三味線のバチは漢字で書けば「撥」である。

三味線
三味線
この記事の画像(3枚)

ギターと三味線は撥弦楽器に分類されること以外に、ともに「庶民の楽器」の側面を持っている。時代劇で、武家や公家の娘が三味線をつま弾くのを見た人はいないと思う。琴なら自然だが、三味線では何となくイメージがわかない。つまり三味線は町人の楽器ということが無意識に了解されているのである。

クラシックギター
クラシックギター

一方のギターも庶民的な楽器である。バイオリンやピアノはハイソサエティーなイメージがあるが、ギターにはほとんどない。

これはギターが他の楽器に比較して音量が小さく、大音響のオーケストラとの組み合わせがよくないため、伝統的なクラシック音楽の主流から少しはずれた存在となったのが一つの理由になっている。

もちろん「アランフェス協奏曲」に代表されるような、ギターを主役とした名曲もある。この協奏曲はオーケストラの間にギターソロを挟み込むことによって、ギターの音が大音響に埋もれてしまうことを巧みに避けている。またギターだけにマイクを使うこともあるようだ。

残念なことに20世紀のクラシックギターの巨匠、アンドレス・セゴビアは「アランフェス」のこの「掛け合い」を嫌い、一度も演奏することはなかった。

セゴビアは「ギターはオペラグラスを逆さに覗いたオーケストラ」という言葉を残しているが、これはギターの音量の小ささを表現すると同時に、さまざまな技法によって多彩な音色を奏で、また豊かな和音をも響かせる楽器であることを誇ったものだ。

そういったギターの立ち位置は、アカデミックの世界でも顕著に表れていて、東京藝術大学をはじめとする多くの音楽大学では、ギターを専攻するコースは設けられていない。(※注2)

一方で、慶応、同志社、明治といった大学のマンドリンクラブはギターの普及に大いに貢献した。ちなみに昭和歌謡界の大作曲家・古賀政男は明治大学マンドリンクラブの創設者の一人である。古賀もそうだが、当時、マンドリンからギターに転向する人が多かった。そのためか古賀の作曲によるヒット作の数々は、たとえば「影を慕いて」のようにクラシックギターの伴奏が非常に効果的に取り込まれており、人々のギターに対する関心をかきたて、やがて街中の小さなギター教室を中心に、ギターは庶民の楽器としてポピュラーは存在に育っていく。これもまた、三味線が横町のお師匠さんによって庶民の芸事として伝えられてきたのに似ている。また三味線が歌舞伎や長唄の伴奏楽器として用いられたのもギターと同じである。

ギターの魅力に取りつかれた人々の群像劇

こういったことから、この『ギターから見た近代日本の西洋音楽受容史』は、正統的なクラシックの歴史からは叙述できない、ギターの魅力に取りつかれた庶民や華族や大富豪の実業家たちの群像劇として、ギターを弾けない人でも面白く読むことができるのである。

たとえば昭和4年(1929年)の巨匠アンドレス・セゴビアの来日公演。

「セゴビアのギターの妙技を耳にした彼らの衝撃の深さは、例えば小倉俊の書き残した『セゴビアの来日は日本のギター界にとっての黒船事件であった』という言葉に端的に表現されている」

ちなみにこの7年前の大正11年(1922年)には天才物理学者のアルベルト・アインシュタインが、また3年後の昭和7年(1932年)には喜劇王チャールズ・チャップリンが初来日している。いずれも世界的著名人を一目見ようと日本中大騒ぎとなった。セゴビアの来日はこのふたりほど騒がれなかったが、その演奏を聴いた人々のその後の人生を大きく変えてしまうほどの衝撃があった。

天才ギタリストとして将来を嘱望されていた大河原義衛は、近くの席にいた観客の「大河原も大したものだが、上には上があるものだ」という会話を聞き赤面、セゴビアとの差を痛感し、さらなる研鑽を誓ったが、やがて病に倒れ30歳余りでなくなってしまった。

また、古賀政男も観客の一人だった。

「その三作目のヒット『影を慕いて』は、セゴビアの演奏を聴いた直後に、その興奮と衝撃が醒めやらぬまま一気に書き上げられたものだと、しばしば伝説的に語られている」

ただ著者は、さまざまな観点から、それは曲ではなく、考えあぐねていた歌詞のほうではないかと推測している。さらに…

「日本で最初にギター独奏のリサイタルを成功させたと伝えられる池上(冨久一郎※評注)の場合は、セゴビアの演奏に接したことによって、ギター演奏のみならず作曲そのものからも身を引いてしまったことが、最近になって確認されている」

その行方さえ不明だった幻のギタリスト・池上は、

「数年前に初めて発見された十数曲の手稿譜とともに、『一音楽愛好家として』残りの人生を全うしたことが、遺族の証言によってようやく明らかになった」

この『ギターから見た近代日本の西洋音楽受容史』は「受容史」と銘打っているだけに、第二次大戦後については、ごくわずかに触れられているだけである。「受容」の時代は終わったということなのだろう。

そして戦後になるとギターはクラシックやフォーク、エレキなど、さまざまな形で多くの庶民に親しまれるようになったのである。

【執筆:赤井三尋(作家)】

(注1)その返礼として幕府は江戸随一の料亭「百川」に1500両(2000両説もある)の大枚をはたいて横浜の応接所で昼食を振舞った。だが、生ものや薄味の料理ばかりで、しかも量も少なかったので、総じて不評だったという。ペリー総督に至っては、「日本はもっといいものを隠しているはずだ」述懐している。

(注2)著者が国立音楽大学図書館で黎明期のギター界に大きな足跡を残した男爵・武井守成の未整理の遺品を調べていることから、まったく無視していたわけでもなかったようだ。

『ギターから見た近代日本の西洋音楽受容史 』(竹内貴久雄 著・ヤマハミュージックエンタテイメントホールディングス)

赤井三尋
赤井三尋

本名・網昭弘 早稲田大学政治経済学部卒業後、ニッポン放送に入社。2003年『翳りゆく夏』で第49回江戸川乱歩賞受賞。2006年フジテレビジョン報道局へ転籍。
【著書】
『翳りゆく夏』( 講談社文庫)
『どこかの街の片隅で』( 単行本・講談社 改題して『花曇り』講談社文庫)
『2022年の影』(単行本・扶桑社 改題して『バベルの末裔』講談社文庫))
『月と詐欺師』( 単行本・講談社 講談社文庫【上・下】)
『ジャズと落語とワン公と 天才!トドロキ教授の事件簿』(単行本・講談社 改題して『面影はこの胸に』講談社文庫)
【テレビドラマ】
翳りゆく夏(2015年1月18日 ~(全5回) WOWOW「連続ドラマW」主演:渡部篤郎)