約70年前、昭和28年(1953年)の大水害、いわゆる“28水”で被害を受けた鳥栖市水屋町。この町には水害に備えてきた先人の知恵を伝えるため、“揚げ舟”が今も残されている。

大石堅二さん:
そこにあるのがね、水屋町の“揚げ舟”

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鳥栖市水屋町にある「揚げ舟」。長さは約5メートルの木製の舟で、住宅や倉庫の軒下にロープでつるされ、かつては水害対策の1つとして重宝されていた。

大石堅二さん:
当時はですね、みんなにとっては“財産”やった

67世帯、172人が暮らす水屋町は、筑後川の支流・宝満川などに囲まれていて、大雨が降ると河川が逆流し、水害に見舞われてきた。

川に囲まれた水屋町
川に囲まれた水屋町

大石堅二さん:
すり鉢みたいに町自体がなっているので、全部の水が水屋町の田んぼの中に集まる。少しの雨でも浸かって、田んぼはすぐ白くなっていた。海みたいに

87歳の大石堅二さんは、水害の中でも昭和28年・1953年の大水害、いわゆる“28水”は、「経験したことのない水位だった」と振り返る。

大石堅二さん:
この家でこの辺(玄関の引き戸の上辺り)まで、頭がやっと入るくらいの…この辺まで浸かった

佐賀県内では、いずれも多いところで、平野部で600mm、山間部で900mmの雨量を記録。水屋町でも堤防が決壊し、河川が氾濫した。

大石堅二さん:
川なんか見ると恐ろしかった。いろいろなものが流れて、人やら牛やら馬やら、家とかどんどん川に流れていきよった

大石堅二さん:
水の力は恐ろしいですね

避難住民の支えに…炊き出しにも活用

そこで住民の支えになったのが揚げ舟だ。避難や救助のためだけではなく、他の手段としても活用されていた。

大石堅二さん:
田んぼの(刈り取った)麦わらを流れないように寄せて、高いところに持っていくよう使われていた

このほか、浸かった町を舟に乗って移動し、長引く避難生活を送る住民に炊き出しの提供も行っていたという。

大石堅二さん:
何日も炊き出しは遅れていた。川で舟が流されたとか話を聞いていた

先人の知恵を後世に伝えていきたい

堤防の補強や排水機場の設置によって、大規模な水害が町を襲うことはなくなった。
それに伴い、揚げ舟の文化も徐々に衰退。現在、4艘残っているが、きれいな状態を保っているのは2艘だけとなっている。

水屋町・井邊秀人区長:
あと20年、30年してから「前の水害はどうだったのか」と振り返る時に、揚げ舟というのは効果的な面もある

一方で、道路や家屋の浸水被害は、今でも毎年のように発生している。
高齢化により“28水”の経験者が減少する中、地元の住民は、揚げ舟を後世に残し、水害への備えを伝えていきたいと話す。

大石堅二さん:
「前はこげんとのあったとばい(前はこういうことがあったんだよ)」、「一斉に使いよったとばい(一斉に使っていたんだよ)」と話せるけれども、揚げ舟が無くなってしまうと、そういう話もする人がいなくなってしまう

(サガテレビ)

サガテレビ
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