30歳の時に、視力が低下する進行性の難病「網膜色素変性症」と診断され、子どもの頃からの夢だった「学校の先生」を辞めざるを得なかった男性がいる。
家族の支えを受けてスタートさせた第二の人生を追った。

30歳で視力が低下する難病「網膜色素変性症」に

福島・二本松市の渡邊健さん(53)、2021年4月に「銀の森治療院」を開業した。

銀の森治療院 福島県二本松市
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30歳の時に診断されたのが「網膜色素変性症」。
網膜の光を感じる細胞に異常が起き、視力が低下する進行性の難病だった。
今は、右目で新聞の文字が一文字か二文字しか見えないほどに悪化。医学的には「全盲」だ。

銀の森治療院院長・渡邊健さん:
例えば目が見えなければ、歯磨きをしたあとに歯磨き粉がついてるのが見えなかったり。
皆が笑顔で話してる笑顔が見えなかったり、そういうことは非常に不便だし、寂しさを感じることもありますよね

「パパはパパ」家族の支えを受けて歩む第二の人生

子どもの頃からの夢を叶え、学校の先生になった渡邊さん。

教団に立つ渡邊健さん

症状が進行する中、教壇に立ち続けたが、「ベストが出せない」というもどかしさから6年前に退職した。

教員時代、生徒たちの前で

いら立ちや切なさと向き合う日々に光を差してくれたのが、愛娘からの「言葉」だった。

~2015年全国盲学校弁論大会より~

銀の森治療院院長・渡邊健さん:
毎日が、いらだちと、切なさとの葛藤の日々でした。そんなある日、私の小学生になる娘が、「目が見えなくなったってパパはパパ。私がパパの分まで見てあげるよ」そう言って私を優しく手引きしてくれました

全国盲学校弁論大会(2015年)

2015年に開かれた全国盲学校弁論大会で、渡邊さんが読み上げた。

当時小学生だった長女の綾乃さん。
高校2年生になり、治療院の手伝いもしている。

渡邊綾乃さん:
本当のところ、実はあんまり覚えていなくて…。覚えているのは、「そんなことも言ったかなぁ」くらいなんです。つらい姿とか見たことがないので、珍しかったんだと思いますね。やっぱり、目が見えないことに対して落ち込んでいる父が珍しくて、何か言わなきゃって思った結果、出た言葉だと思いますね

家族の支えを受けてスタートさせた第二の人生。
福島県立盲学校の理療科に入学し、3つの国家試験に合格した。
卒業後は大学院に進学。研究と臨床を重ねて開業したのが、「銀の森治療院」だ。

患者:
ここでは、自分の足の痛みだけじゃなくて、こうやって色々話ができたり、大学や支援学校で学び始めた頃の話を聞くと、いかに自分の努力が足りないのかって痛感してしまいますよ

講演の最後に中学生へメッセージ

治療院の仕事のかたわら、講演活動を行う渡邊さん。
この日、初めて母校の二本松第一中学校を訪れた。

銀の森治療院院長・渡邊健さん:
(知・体・心)3つのバランスがOKだったら、まっすぐ進むはずなんです。まっすぐ進んだ先に何があるか、僕が何をイメージしているかというと、まっすぐ進んだ先には出会いがあるんですね。出会いがあります…と考えています

講演の最後に、渡邊さんはステージに上がった。

銀の森治療院院長・渡邊健さん:
私は目が見えてないけど、目が見えない人であろうが、男性だろうが女性だろうが、外国人であろうが、年配の方だろうが、皆さんのような若い方であろうが、それぞれの命があって、それぞれの人格があって、みんなが一生懸命生きてきた十何年間があって、それが全て、結局同じなんだよってことを伝えたいの。そして、あなたしか経験していない、その人生の時間を豊かにしていってください。それが今日のメッセージです

講演を聞いた生徒:
目が見えない人っていうので、ちょっと大変なのかなって思っていたんですけど。目が見えないからと言って、人を簡単に判断しちゃいけないなって。すごい人はすごいな、こういう人っているんだなと思いました

講演のあと、拍手を贈る生徒たち

講演を聞いた生徒:
(目が見えない人には)見えなかったです。不便は、私たちよりはしてらっしゃると思うんですけど、それも楽しんでいる感じで。仕事にやりがいを感じてたりするのかなって思いました。誇らしい気持ちになって、私もああいう先輩になりたいです

銀の森治療院院長・渡邊健さん:
人って、障害にかかわらず、何かいろいろつまずいたり考えたりするところがある訳で。
そういう時に子どもたちが、私みたいにのんきにやってる姿を見てくれることで、「あ、大人も悪くないかも」って思ってくれればいいのかなって。安心感を与えたいというか。
周りの方たち・地域の方・友人・同僚、一番は家族が「笑顔」でいられるようにしたいっていう、命が終わるまでですね

(福島テレビ)