平成から令和にかけてプロ野球界は変革を続けてきた。
しかし、変わらないものもある。それは故・野村克也監督が残した魂だ。

データの重要性を掲げた“ID野球”が生まれて30年。野村監督が伝えた「考える野球」こそが、日本の野球となっている。

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2021年の監督は12球団中6人が野村監督の教え子という、球界史でも珍しい状況だ。

ヤクルトは高津臣吾監督、阪神・矢野燿大監督、楽天・石井一久監督、日本ハム・栗山英樹監督、西武・辻発彦監督、中日・与田剛監督の6人が、直接教えを受けている。

現代のプロ野球に浸透している野村監督の魂を、教え子を通して振り返っていく。

今回は、野村監督が阪神タイガースの監督時代に正捕手を務めた、阪神・矢野監督に話を聞いた。

良いタイミングで出会えました

――阪神監督時代の野村監督について

僕の人生で良いタイミングで出会えました。

スポーツはもちろん技術やポテンシャルが大事な部分でもあるんですけど、考えて、準備して、頭を使えば、パフォーマンスが高くなくても追いつくことができたり、勝つこともできると教えてもらいました。出会えて感謝の気持ちしかないです。

――矢野耀大にとって野村克也の存在は?

めちゃくちゃデカいです。

自分はプロに入って、結果がなかなか出ずにいたころ、野村監督に「頭を使えば追いつける、勝てる」と言ってもらえて。監督の目の前に座っていましたので、そこでぼやいている言葉からも教えてもらって。

“こうやって野球を見ていけばいいんだ”ということや、“こうやればもしかしたら自分も上手くなるかも”と、学ばせてもらいました。

結果的に3割打たせてもらったのも野村監督のおかげですし、レギュラーキャッチャーになったのは監督と出会った30歳を超えてからなので、その後40歳まで選手としてやれたのは、野村監督無しでは考えられないので、良いタイミングで教えてもらうことができ、感謝しています。

苦しい中でも「野球を楽しむ」

――野村監督から当時教わったことは?

僕に見えないものが野村監督には見えていたんですよね。「次走るぞ」とか「ボールがくる」とか。
僕は見えているようで見えてない、感じているようで感じていない。でも、“感じよう”、“見よう”としていけば、違いや投げ方がわかる確率が高くなったりして、確率が上がったことで、3割打たせてもらった。

「ちょっとでも見えるように、もっと感じられるように」と意識をして野球をやることで、僕も変わっていけたので、僕の中では監督から言われた「感じろ」という言葉が一番印象に残っています。僕が大きく変わることができた言葉でした。

ただ“来たボールに対して打つ”、それだけでは僕の技術だと数字は上がらなかったです。投げてくる前の予測の確率を上げられるか、「山を張る」というと外れるか当たるかという感じですが、根拠を持った山の張り方で、確率が変わっていく。

打つ方もピッチャーの方も、どう感じているのか、「弱気になっているのかな?」とか、「バッターがどうしたいのか」など、色々なことを感じ取ろうとすることで、自分の中で気が付けることが多くなってきて、それが大きな違いでした。

――監督になった今、教えが生きていることは

「頭を使え」ということはもちろん選手に伝えていますし、「根拠を持ってやっていけば見逃し三振でもいいんだ」と野村監督に言ってもらっていたので。

バット振らない=悪いではなく、自分で考えて根拠を持ち、それが外れたときには咎めるのではなく、「どうしてか?」と聞くことで、「こうやってやろうとしたけど振れなかった」と答えを受け止められれば、それは次につながる三振なので、そういうことを伝えています。

野村監督の家に遊びに行ったときに、色紙に「野球に学び、野球に楽しむ」と書いてあったんです。数字に追われ結果に終われ、日々苦しい時も多いんですけど、だからこそ楽しもうと、野村監督は書いていた。

振り返れば、「マー君、神の子、不思議な子」だったり、そういう言葉も、ファンのみなさんも野村監督も苦しい中で、“楽しむ”ことも考えていたんだ、と。その色紙を見たときに共感しました。

監督として、“楽しむ”ことを選手たちに伝えているので、野村監督の影響は受けています。さらに「上手くなくても勝てるんだ」というところも、これからも伝えていきたい。