がん告知後、仕事とどう向き合っていけばよいか

この記事の画像(4枚)

“がんサバイバーシップ”という言葉をご存知だろうか。1986年にアメリカで生まれた概念で、がんと診断を受けた人たちのその後の人生のプロセスを指す。がんサバイバーと呼ばれる彼らは告知後、治療や仕事、家族、その後の人生とどう向き合い、悩みを乗り越えてきたのか。今回は、なかでも「仕事との向き合い方」に焦点をあて、現在も社会で活躍する2人のがんサバイバーに話を聞いた。

職場の理解と協力が治療の大きな励みに

一人目のがんサバイバーは、新潟県在住のフリーアナウンサー、伊勢みずほさん。2014年、35才の時に乳がんの診断を受け、手術と薬物治療を経て寛解(ガン細胞の消失)。現在も精力的にアナウンサー業を続け、自らの経験を綴った著書『がんのち晴れ〜キャンサーギフトという生き方〜』も出版している。伊勢さんは、告知を受けた後も治療と並行してアナウンサーの仕事を続けたという。一体、どんな心境だったのか。

「2014年の春頃、右胸にしこりがあることに気づいて専門外来でマンモグラフィーを受け、5月に乳がんステージ1の診断を受けました。大好きなアナウンサーの仕事を続けられないかもしれないという考えが頭をよぎり、告知直後は落ち込んで泣き続けていましたね。当時、テレビとラジオのレギュラーを持っていて、直接迷惑をかける番組担当の方と家族だけに伝え、あとは10ヶ月間ほど誰にも話しませんでした」

フリーという仕事柄、代役を立てることの難しさや、先々まで決まっていた仕事への責任感もあり手術入院の前後に数ヶ月の休みを取りながらもテレビ出演を続けた伊勢さん。抗がん剤治療の影響で見た目にも変化があり、精神的に辛い時期もあったそう。

「がんを隠しながらの出演だったので、ウィッグに違和感を感じていた視聴者の方もいらっしゃったと思います。薬の副作用で顔も腫れていたので、太ったと言われたり、告知直後に結婚をしたため妊娠したという噂がネット上で流れたりして。傷つきましたが、隠している自分の責任だから仕方がないと思っていました」

手術後は、1年半におよぶ再発防止のための抗がん剤治療を行いながら仕事を続けた。仕事をしながら苦しい治療を乗り切ることができた影には、仕事先の人たちの支えがあったからだという。

「番組のプロデューサーにがんのことを話し、降板も覚悟していると伝えると、『あなたの席はとっておくから、今は安心して治療に専念しなさい』と言ってくれて。帰る場所があるということが辛い治療を乗り越える励みになりました

告知直後に離職を考えた伊勢さんだが、治療が始まってみると仕事で楽しい時間が持てたことが体にも心にもよかった、と振り返る。周囲の理解や協力があったから、好きな仕事を続けることができた。

「仕事を続けるかどうかは、非常に重要なこと。まずは時間を置いて、どちらが自分にとって最良の選択なのか少しでも冷静になってから決めて欲しいですね。続けることが治療の励みになるなら、職場の理解を得られるように努力をしていくべき」

その後、ブログでがんを告白。会社には治療過程を細かく説明し、体の調子も都度伝えるなど、コミュニケーションを心がけた。一生懸命、周囲に不安な気持ちを伝えると、周囲の人が応援してくれて人生観までガラリと変わった。弱音を吐くことの大事さにも気付いたという。がんを打ち明けた後に周囲からどれだけの理解を得られるか、信頼関係の築き方や告知後の振る舞い方など、伊勢さんから学ぶことが多くありそうだ。

余命2週間の宣告、長い治療を乗り越え、寛解へ

2人目のがんサバイバーは、看護師の田中真美さん(仮名)。2004年、29才で血液がんの告知を受けたのち、2度の移植を経て再発。余命2週間の宣告を受けた。そこから2008年に3度目の移植を受け、数年後に寛解。現在、がんサバイバー歴13年目を迎え、抗がん剤治療の後遺症を抱えながらも、看護師として仕事を続けている。その長い闘病の軌跡をうかがった。

「がんが見つかる数年前から体力の著しい衰えに悩んでいて、体力仕事の看護師は向いていないのかもと転職を考えていました。ところが、退職願を出した後に受けた検診の結果、血液がんと告知されて。ショックでしたが、体力が落ちた理由が病気だったとわかってほっとした気持ちも少しありました。それから転職願いの取り下げを願い出て、休職という形ですぐに入院治療することに」

そこから化学療法と造血幹細胞の自家移植を2度受けたのち、2005年に復職。体力的に楽な部署に異動したが、復職して1年半後に再発が見つかり、外来で抗がん剤治療を受けながら働き続けた。異動先の部署に同じ血液がんを治療する同僚が2人いたため、励みになったという。しかし、治療をしながらの勤務で辛い現実にも直面した。

「忙しい現場では、同僚の病人まで配慮する余裕がないため、想像以上に辛く当たられる事もありました。副作用で頭がぼーっとしたり、体が思うように動かないことで、仕事ができない人と見なされて。精神的に非常に辛い時期でしたね。再発を早める一因になったと思います」

当時は、がんの数値もそこまで悪くなかったため、「本当はできるのに、甘えているだけ」と自分を責めていたという田中さん。今思えば自分の体が限界だったこともわかるが、渦中にいたことで耐えるしかないと思っていたのだ。

「その後、登場した新薬で病状は好転しますが、副作用が強く出たために中断。がんはかなり消滅していたので様子を見ることに。半年経った頃、調子が悪くなって検査を受けると急激に悪化していることがわかり、『2週間ももたない』と言われて。血圧が70まで下がり、昇圧剤を投与され、ポンプにつながれている状況の中でも頭は冷静でした。なぜか、ここで死ぬ感じはしないな、という感覚があったんです。人はみな、自分の最期に直面したら感覚として自然とわかるものなんだと思うようになりました

そこで、最後の手段としてリスクの大きい「さい帯血移植」に踏み切ることとなる。やっても苦しめるだけ、という直属の部長の反対を押し切っての主治医の判断だった。移植後の免疫抑制剤投与も早めに打ち切り、あえてドナー細胞を体内のがん細胞と戦わせる治療を選択。危ない時期もあったが、日本で一番移植経験のある病院のチーム医療によって、田中さんは一命を取り止め、寛解までたどり着いたのである。

幾度となく大変な時期はありましたが、早い段階から“病気は一つの個性”ととらえて深く悲観することはありませんでした。病気によってすべてが支配されるわけではないし、共存していくしかないんです。どうにもならないものに対して悔やんでも仕方ありません。いまでも新薬の後遺症が残っていて罹患前と同じように働くことはできませんが、13年目を迎え、新しい職場で働きながら自分のペースを少しづつ取り戻しています」

医療現場で働きながら、がん治療を経験した田中さん。実情は甘くはないが、懸命に治療や仕事に取り組みながら重いがんを寛解にまで導いたプロセスは、多くの人に勇気を与える。治療が進歩し、がんと人が共存していく時代になったいま、働くがん患者をうまく受け入れられる社会の実現が早急に求められている。



(執筆:井上真規子)