スポーツの秋。福岡県内でも各地で運動会が、たけなわだ。しかし昭和の時代の運動会やスポーツの映像を振り返ると、現代では考えられない光景や時代を感じさせる指導の姿が残されていた。
現代の運動会から消えた種目
「わっしょい!わっしょい!」 上半身裸でグラウンドに入場する生徒たち。1984年(昭和59年)、福岡市内の高校の体育祭の映像だ。

入場した生徒たちが挑んでいたのは『組体操』。総勢48人が力を合わせて披露する7段の“人間ピラミッド”。

「よっしゃ~!」 この日の本番では、見事に成功。感極まる生徒の姿も見られた。この『組体操』だが、事前練習では失敗の連続だった。

落下して担架で運ばれる生徒も出るほどで、危険を伴う種目だった。そのため生徒たちの取り組み方も真剣で、本番での成功には「やり遂げた」という歓喜の思いが詰まっていたのだ。

『組体操』は、体育祭の大きな見せ場のひとつの種目だったが、全国的に事故が相次いだことで、段数の多いピラミッドは次第に姿を消していった。

運動会で消えた種目は『組体操』だけではない。『組体操』に並ぶ花形種目の『騎馬戦』もケガのリスクが高いため、全国的に中止やルールの変更が行われてきた。

1987年(昭和62年)の映像には、小学校でも『騎馬戦』が行われていたことが記録されている。女子児童が参加する学校もあったほどだ。

一方、1987年(昭和62年)、福岡市内の予備校が開催した運動会。

志望校のプラカードを掲げ、受験生たちが懸命に走って競い合う。途中には、英語の問題を解かなければいけないポイントも設けられていた。

「何やこれ!?」 問題の回答が分からず、立ち止まってしまう受験生の姿もみられた。
戦前の運動会には“軍隊の影”も
約90年前、1937年(昭和12年)頃に撮影された、現在の久留米市田主丸町で行われた運動会の貴重な映像。この時代から『騎馬戦』などの種目が盛んだったことが窺われる。

楽しそうな映像に交じって、突然、画面に登場するのは多くの兵隊の姿。校庭で銃を構えたり、行進したりする姿が記録されていた。

運動会の映像にも、軍事色が強まっていく当時の時代背景が表れていた。
スポーツの目的は“根性を鍛える”こと?
1979年(昭和54年)、少年剣道の早朝稽古の映像。昭和のスポーツで重視されていたのが、技術の向上だけでなく、根性を鍛えることだった。

子どもを剣道場に通わせている母親も「とにかくもう泣き虫だったからですね、根性つけなくちゃいけないと思って」と話すほど。

それに応えて指導者も「まあ根性のある人間にですね、立派な人間になってもらおうと教えよる」と子どもたちに気合を入れていた。

“昭和のスポーツ”では、人気のあったアニメやTVドラマのいわゆる『スポーツ根性モノ』を地で行くようなチームがあった。

そのひとつ、当時、強豪校だった博多女子商業高校(現・博多女子高校)のバレーボール部。1979年(昭和54年)の映像が残されている。
「叩いたり殴ったりしてもいいから…」
「練習のときに闘わないかん。闘っとらんだろ!お前たち!お前らか勝つか、俺が勝つか、どっちかだろ!」と部員に檄を飛ばすのは、当時の監督、徳丸順庶さん。

超至近距離で繰り返される激しいレシーブの練習。選手も監督に掴みかからんばかりに気迫が漲る。こうした厳しい練習を1日6時間半、年中休みなく続けていた。

1986年(昭和61年)の映像。徳丸監督は、実の娘が入部した際も一切、手を緩めない。

「はがゆうないとか!?」とボールを投げつける監督。「はがゆいです!」と娘もボールに食らいつく。

「私自身にも言えることなんですが『己に負けず今を勝ち取れ』。自分自身に負けないで今の瞬間を頑張ろうということをチームのモットーにしとるわけです」と監督は話していた。

選手に対してのインタビューも残されている。
記者) バレーボール部を辞めたいと思うことない?
部員・1人目) いえ。バレーボールが好きだから。
記者) あなたにとって徳丸先生は、どんな存在?
部員・1人目) 練習のときは厳しい先生で、練習が終わったら優しいチームのお父さんみたいなものです。

部員・2人目) 徳丸先生は、やっぱり尊敬しています。(どこが?)やっぱり自分の精神面の弱いところなんかを(鍛えてくれようとして)、ボールをぶつけたり、ひっぱたいたりしてくれるからです。

部員・3人目) もっと私たち子どもに対して厳しくやってほしいと思います。あるときには、手を出したり、もう叩いたり殴ったりしてもいいからですね、もっと厳しく私たちに教育してほしいと思います。

厳しい練習を重ねた博多女子商業。見事に全国大会で何度も優勝や準優勝を成し遂げ、強豪校の一角を占めた。

1977年(昭和52年)、福岡に凱旋したときの映像。「優勝の原因は?」と聞かれた徳丸監督は「今回、生徒が自分たちでやらなければいけないという気迫がありましたですね」と応えた。

かつて、昭和の時代は、強くなるため、競技力向上のための必要悪として、多少の厳しさが黙認されやすい面もあった。
(テレビ西日本)

