「一番辛いのは、妹に毒薬を飲まして殺したこと。それから、母親にも毒薬を飲ませて殺してしまった」
こう淡々と語るのは、京都市の91歳の男性。
かつて中国東北部・満州で、終戦後の引揚のさなか、自らの肉親を失った。
今も消えぬ記憶とともに生きる、1人の引き揚げ者の証言だ。
■ソ連軍侵攻と敗戦 母ときょうだいだけで“引き揚げ”へ
京都市に住む村上敏明さん、91歳。1938年、両親や弟とともに旧満州にわたった。
日本軍は当時、領土拡大や資源確保のため、自ら起こした鉄道爆破事件を中国側の犯行として軍事行動を起こし、かいらい国家「満州国」を建国。
国策として多くの日本人が満州に渡っていたのだ。
父親は南満州鉄道の関連会社に勤務。
満州では弟や妹も生まれ、生活は苦しいものではなかったという。
しかし1945年8月。ソ連の侵攻と日本の敗戦でその生活は一変する。
中国の内戦も激しくなり、家の周囲でも銃弾がとびかう危険な状況となった。
だが満州に駐屯していた日本の関東軍は敗走。現地の日本人は置き去りにされた。
父親は終戦前に徴兵されていて、終戦の翌年、村上さんが11歳の時、母親ときょうだいだけでの日本への引き揚げが決まった。
■渡された“薬”を妹に…「殺してしまうことは自覚はしてました」
そんなある日のこと、村上さんの自宅に何人かの日本人がやってきた。
そして、見慣れない薬を村上さんに渡し、1歳の妹 芙美子さんに飲ませるよう求めたのだ。
【村上さん】
「日本人のグループ、役人の方が来られて、“これを飲ませなさい”と。スプーンで(妹に)飲ませたんですけど、母親に抱かれて、その後ろには日本人会の役人さんおられる、お医者さんもおられる。
妹は飲ませた瞬間に目をぎょろりと開けて死んでしまった。目をぎょろりと開けた時に、お兄ちゃん何すんのって言うたような気がしました」
(Qその時は訳も分からず飲ませたのでしょうか?)
「殺してしまうことは自覚はしてました。引き揚げの汽車に乗って、船に乗って日本に帰ることに耐えることができない。だから、この幼子は殺してしまえということだったと思います」
■「母も私が殺したことになります」 引き揚げ船の拠点の病院で
さらに悲劇は続く。
妹の死後、村上さんの母親が心身ともに衰弱。
天井のない引き揚げ列車に横たわりながら、うわごとのように「芙美子 芙美子」と言っていたという。
村上さん一家はなんとか引き揚げ船の拠点となる葫蘆島にたどり着き、母親は現地の収容所の病院に入院する。
村上さんはそこで、医師から見慣れぬ薬を渡され、母親に飲ませた。
母親はその場で泡を吹き、亡くなった。
【村上さん】
「母も私が殺したことになります。当時の日本が、海外にいる日本人を見捨てたことには、今も憤っています。
政府が国民を守るということで決意してくれていたら、母親も妹も一緒に日本に帰れたんじゃないかと思っています」
村上さんは母親を近くの土手に埋葬。弟たちを連れ、日本へ帰国を果たした。
■戦後30年以上経ちよみがえる記憶「妹を殺した」
戦後、京都市役所で勤務しながら、家族にも恵まれた村上さん。
長らく、満州での悲しい記憶を忘れていた。
だが、戦後30年以上がたってから当時の友人と再会したことで、記憶がよみがえった。
当時、この友人に、「妹を殺した」と泣きながら語っていたという。
いつからか、村上さんの自宅の軒先には芙蓉の花が咲くようになった。
「芙蓉の花のように美しく」1歳の妹、芙美子さんの名前の由来でもある。
村上さんは、この芙蓉の花を、妹と思うようになった。
■「僕らは声をあげ続けなければならない」 しかし…
自分のような悲劇をもたらす戦争を繰り返してはいけない。
村上さんは、そんな思いから、自らの体験を講演会などで語り続けてきた。
だが、91歳になった今、それも難しくなった。
「僕らは声をあげ続けなければならない」
こう語る村上さんのような戦争体験者たちが近い将来1人もいなくなった時、私たちは先の戦争と、真摯に向き合うことができるのだろうか。
